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「傷」とは何か

散々、noteで「傷」とか「傷つく」とか「傷つきすぎた人」って書いてるわりに、「傷とは何か」って事については書いてなかったような??と思って書いています。
※ 難易度はかなり高めです。

簡単に言えば「傷とは、魂の願いを自らが否定した、拒絶したときに出来るもの」です。

なので、自分が常に魂の願いと共に生きている限り、人は傷つかない。

*     *

外側で起こる様々な事象の中で、それによって自分の感情が揺れるものは
自分の魂の願いに気づかせる切っ掛けだったり
その願いを実現する覚悟を試すためのもので、それ以上でも以下でもありません。

「親ガチャに外れて苦労させられているのに?」
「駐車してたら当て逃げされたのに!?私は全く悪くないのに!?」
という意見もあると思いますが、それでも、です。(細かいことを書き始めると膨大になるので、書きませんが)

でも、事象によっては「こんなことが起きるってことは、もうこの願いが叶う可能性はない、この願いは諦めろって事だよね」と思うしかないような時もありますが
それでも、事象が誰かの魂の願いを否定することは無くて
ただ事象はその人の魂の願いに気づかせたり、覚悟を試しているだけなのです。

事象が起こる意味を知らないと、事象のインパクトと、過去の未消化の感情によって動いた感情に自分自身が打ちのめされ
あんなことが起きたからだ!とか
あの人のあの言葉によって自分は傷ついた、と解釈されたままになります。

そして、外側が原因で自分の願いは叶わなかった、あの人によって私の夢は壊された!という間違った思い込みが自分の中で増えるため
願いを叶えるために「あの人が変われば」とか「状況が整えば」と外側が整うことを求める人が多い現状があり
その結果、傷は増える一方だし、傷が増えるほどに願いを叶えるという事から遠ざかる人が増えているのです。

*    *

感情は魂の声からの派生したもの、なので、感情に向き合うから魂の声が聴けるし、魂の願いにも到達できます。

これは別の言い方をすると、魂にとって関係のないことに対しては感情は全く動かない、無関心のまま、という事でもあるのです。
だからこそ、自分の感情が揺れる何かが起きた時、自分の魂の願いにも触れていると言えるのです。

なので事象や、事象から引き出された感情で自分の願いが叶う、叶わないで判断せず
引き出された感情を味わい尽くして、魂の願いを掴む事が出来れば人は傷つくことはないのです。

簡単に言えば、掴んだ魂の願いと共に生きている限り人は外側で何が起ころうとも傷つくことはないのです。

感情、事象、魂の願いの関係性について詳しく知らない方にとっては、ここで書いてあることは「ちょっと何を言ってるのか分からない」になる内容かと思いますが、これが「傷」のカラクリです。


























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