#3 ソ連とジャズ②
ラジオ放送
1950年代当時、冷戦中だったので西側諸国の電波はもちろん遮られていたものの、スターリン死去後の1953年からソ連国内では禁止されていたジャズへの粛正が徐々に緩んできたりと、だんだんと社会が変化していきます。
カプースチンはモスクワ音楽院付属高等音楽学校時代に、自身とジャズを出会わせるきっかけとなる人物、アンドレイ・ミハイル=コンチャロフスキー(1937-) と知り合うことになります。
コンチャロフスキーはカプースチンと同じ門下生で、彼の父親のセルゲイ・ウラジーミロヴィチ・ミハルコフ(1913-2009)はなんと、ロシア国歌の作詞者です!
コンチャロフスキーのお家はロシアのセレブのお家だったらしいです💰
冷戦の影響で西側の電波が遮断されていた当時ですが、完全に遮ることは不可能であったため、夜になるとこっそりとアメリカのラジオ放送を聴く事ができたそうです。
カプースチンはコンチャロフスキーに誘われ、夜な夜な隠れてラジオ放送「ヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)」を聴き、VOAを通して初めてジャズを聴きます。このことがきっかけで、カプースチンはジャズに興味を持ち始めることになります。
このVOAですが、国内では人気がかなり高かったようで。というのも、国民は西側からのプロパガンダだとわかっていたものの、VOAの放送内容における信頼性が高かったと言います。
また、VOAで音楽番組や文学番組が聴けることにも魅力があったようです。
カプースチンの他にも、VOAがきっかけとなってジャズ愛好家になった人は多かったみたいです。
このソ連国内でのVOAについて書かれたこちらの記事、かなり参考になっておもしろいのでリンクを貼っておきます⬇️
第 6 回世界青年学生祭典
1957 年、モスクワで第 6 回世界青年学生祭典が開催されます。世界青年学生祭典は、世界民主青年連盟が「反帝・反戦・平和・親善・連帯」をスローガンに掲げて、世界各国で行われる祭典で、スポーツ・文化芸術・政治の各部門に分かれており、開催は不定期で行われます。
当時のソ連は西側との和解を目指しており、音楽界においても 20年近く禁止されていたジャズの許容が始まった時期でもあります。
この第 6 回世界青年学生祭典は、ソ連が国際社会全体に「開放性」を示し、 イメージアップを図るための大変重要なイベントでした。
世界各国から参加者が募り、 参加者数は 3万4000人に上ったそうです❕
この祭典ではジャズの演奏も盛んに行われ、カプースチンも、ユーリー・サウルスキー (1928-2003)がバンドリーダーを務めるジャズバンドの一員として、第 6 回世界青年学生祭典に参加します。
この祭典でカプースチンは、ビッグバンドのために作曲したピアノとオーケストラのための《コンチェルティーノ concertino》Op. 1(1957)を初演します。
③へ続きます。
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