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#2 ソ連とジャズ①

 今回は、カプースチンが若かりし当時のソ連とジャズについて、最近調べたことを簡単にまとめてアウトプットしていきます✏️

ソ連国内におけるジャズの流行

 カプースチンは1937年に現在のウクライナの東部ドネツク州、ホルリウカ に生まれます。この当時ウクライナはソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)に属していました。

 カプースチンが生まれる前のソ連では、ウラジミール・レーニン(1870-1924)が指導者として就任しており、ジャズは敵対する国アメリカの音楽でしたが、虐げられた人々の音楽として「政治的闘争の武器として使えるかもしれない!」と、国内では許容されていました。

 ジャズはソ連国民からも温かく歓迎され、1922年にモスクワで開かれたアマチュア演奏家による最初のジャズコンサートを機に、ジャズはソ連国内で爆発的な人気を博すことになります。

 1920年代後半になると、モスクワレニングラード(現サンクトペテルブルク)では地元の数々のジャズバンドが現れ、やがて国中のジャズファンにとって憧れの地となっていくほどに❕
ソ連におけるジャズの中心地となったみたいです。

ジャズの禁止

 指導者がヨシフ・スターリン(1878-1953)に移ると、ジダーノフ批判と共にコスモポリタニズム批判が起きます。

コスモポリタニズムとは

民族や国家を超越して、世界を一つの共同体とし、すべての人間が平等な立場でこれに所属するものであるという思想。

精選版 日本国語大辞典

のことで、当時のソ連ではコスモポリタニズムを社会的条件や民族的伝統を無視するということで批判の対象としていました。 

 これらの社会的動きから、1936年頃より西側の音楽は事実上排除されることになります。

 特にジャズは「古き良きエストラーダを歪める」として強く非難されていました。カプースチンは1937年生まれなので、カプースチンが生まれた当時のソ連では既に、ジャズは禁止されていたことになります。

 また、ジャズを代表する楽器であり、ドイツ人のルドルフ・サックスが発明したサックスは、ソ連では完全に禁止されていました。

ソ連国内のほとんどのサックスは回収され、全部燃やされていたみたいですね、、

「今日ジャズを演奏する者は、明日すべての国を売り渡す」「サキソフォーンからナイフまでは一歩だ」というスローガンが巷では広がっていたそうです…🥶

 この時期のソ連国内の多くのジャズミュージシャン達はジャズの演奏を禁じられ,失業に追い込まれることになります。

 しかしそこでくじけないミュージシャンも多数存在したようで、サックスがダメなら別の楽器で!と楽器を代用したり、ジャズの曲をクラシック民謡風にアレンジしたりと、当局や世間の批判をかわすために“ジャズ風”を装うことで実際はジャズを演奏し続けたのです。
なんたる生存戦略‼️

 少し戻りますがジダーノフ批判といえば、プロコフィエフやショスタコーヴィッチの音楽が批判の対象とされていた話が有名ですよね。

「労働者の姿を描く社会主義音楽」の理念に合わないものを次々と排除し、批判に逆らおうものなら作品の演奏禁止や流刑と、その処罰はかなり厳しいものでした。

 社会主義音楽の理念とは、古典的な“分かりやすい音楽”であり、党の幹部が理解できない先進的、前衛的な音楽は「社会主義音楽ではない」と否定されていたのです。

スターリンやジダーノフは音楽好きだったそうで、ヒトラーにもみられるように芸術好きの独裁者は好きな分野にこそ口を出すことが多いそうです。

 カプースチンは1951年頃から独学で作曲を始めますが、そんな当時の背景からか作曲当初のカプースチンの作品はロシア音楽の伝統的なスタイルで書かれていました。

カプースチンとプロコフィエフ

 ジダーノフ批判の対象とされていたプロコフィエフ。
『交響曲第6番』を初めとする彼の作品は次々と演奏禁止の処分にまで至るほどでしたが、カプースチンがモスクワ音楽院付属高等学校時代についていたアヴレリアン・ルバーフ (1896-1976)は、プロコフィエフの音楽を重要視していました。

 カプースチンも積極的にプロコフィエフの作品を演奏し、モスクワ音楽院に入学する試験ではリストの『ドン・ジョバンニ幻想曲』とプロコフィエフの『ピアノ協奏曲第2番』の2曲を準備していたそうです。

 結局試験では審査の先生から指定された『ドン・ジョバンニ幻想曲』を弾いたそうですが、当時プロコフィエフの協奏曲は演奏する人が少なく、試験官の先生としても評価のしようがなかったのかもしれないです。

 カプースチンは高校時代に、プロコフィエフの5曲のコンチェルトのうち左手のために書かれた第4番以外全て弾き、プロコフィエフの音楽を積極的に勉強していました。

 カプースチンの作品の中にはプロコフィエフの作品からの引用か?と思われるようなフレーズも多々ありますが、やはり影響が大きかったのだと思います。



②に続きます






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