4回目 税務調査の在り方について 3
2 私の経歴(看板に偽りなし)
私の記憶は、母子寮という施設の中の生活から始まる。ここで小学5年生まで過ごした。片親などと差別を受けたこともあった。家の場所を聞かれ、母子寮だと言えず、大雑把に「あっちの方」と指さして答えたことを覚えている。年上にいじめられてよく泣いたが、年下にはおもちゃを与えて手なずけ、親分気取りだった。6年生になる時に転校した。母の実家が家を新築したので、隣に残った古い家に引っ越したのである。当時でも珍しくなった藁ぶき屋根の家だった。就職するまでそこで過ごした。
私は小さい頃から負けず嫌いで、よく取っ組み合いのけんかをした。パンチは反則だという暗黙のルールは破らなかった。小、中、高いずれも教師の愛の教育的指導というビンタで成長した。母からも。私は、これでまっとうな人間になれたと感謝している。
中学の時、学校のゴミ箱の周りに散乱したゴミを片付けたことがあった。何となく気になっての行動だった。その時、偶然に先生がそれを見ていて私を褒めてくれたのだ。私はそれ以来、「ゴミはゴミ箱へ」にこだわるようになった。自転車に乗っていてゴミを落としてしまった時も、引き返してゴミを拾ったぐらいだ。私は褒められて成長して来たと思っている。成績は中の上くらいだった。それでも、目立ちたがり屋だった私は生徒会長に立候補し、立会演説会など選挙戦を制して生徒会長になった。中学、高校はサッカー部に所属し、サッカーに明け暮れた。高校では、小学生から夢中だったサッカーでついにキャプテンになったのだ。
私は経済的に貧しい母子家庭で育ったので、商業高校を経て公務員を目指した。市役所はコネがないと無理だと言われた。私はサッカーに明け暮れた体育会系の男子だったので、警察官や消防隊員も考えたが、最終的には色々な技能が習得できる自衛官を志願することにした。この間、担任に勧められて税務職の試験も一応受けたのだが、難しくて手応えが全くなかった。私の気持ちは自衛官になりきっていたのだが、忘れたころに税務職の合格の知らせがあったのである。難しい試験に合格したことと仕事が難しそうで何となく偉そうな仕事に思えたことから、私は安易に税務職を選択してしまったのである。どんな仕事をするのかよく分からずにこの世界に飛び込んだのである。
私の42年余りの税務の足跡を辿ってもらえば、私の「税務調査の在り方」の真価を理解してもらえるのではないか。
私の税務における職歴は、
・昭和54年4月 行政職(一)職員として採用。普通科研修(第39期)を経て、
・昭和55年3月 大蔵事務官(税務職)に任官。初任者基礎研修を経て、
・昭和55年6月 KA税務署に配属。4年間調査部門に従事。この間に法政大学(二部・夜学)に通学し、昭和59年3月に卒業。以後、TA税務署(調査部門)6年間、税務大学校本科研修(第26期)1年間、TO税務署(調査部門)2年間従事した。
・平成04年7月以後、国税局 課税第一部 資料調査課の実査官や調査査察部 査察部門の査察官を経て、
・平成09年7月 預金保険機構に出向。特別業務部 特別調査課及び機動調査課に調査役として従事。
・平成12年7月 国税局 調査査察部 査察部門で主査として従事した後、査察総括課で情報技術専門官や資料調査課の総括主査や査察部門の総括主査として従事。
・平成22年7月 KO税務署 特別国税徴収官として初めて徴収事務に従事。
・平成24年7月 KW税務署 特別国税調査官として従事した後、3署7年間、特別国税調査官として従事。
・令和03年7月 指定官職になれず、たたき上げの税務調査官のまま退官し、
現在に至っている。
税務の職場を振り返ってみると、延べ42年余り。研修期間の2年余りを除けば40年間である。この間、調査部署以外に従事したことはなく、主として所得税及び消費税の調査事務に従事して来た。自分自身が担当する調査事案が無かったのは、資料調査課と査察部門の総括主査として部下の調査事案を指揮した4年間だけだった。
<続く>