さぼる。さぼるわね

 前回あ、そうだ(唐突)とか言いながらあっという間にさぼっている。なんだか自分の書いたものを自分で読みたいという欲求が欠けている。

 これは昔からなのだが、それに対する自己肯定が実際できてない。文字を読むのは大好きなんだけどなあ。なんかいっぱい書いてあれば、それなりに自分で読んだりするだろうからいっぱい書きだめておいたらいいんじゃないか。と思って今やってる。意味などどうせないけど、書けてる。えらいとかえらくないとかの前に、自分は何ができたのかという総括が足りない。だからすぐ何もできていない気分になる。

 世の中には自分で書いたものより面白いし、ためにもなるものがごまんとある。しかも自分で書くよりもはるかに速いし。タイピングが遅いんだよ。でもかけている。手書きが下手なんだからこれしかないんだよ。書くんだ460。締め切り?そいつが飛ぶんだ。(あからさまに古いが、こういうどおでもいいものが脳内の一部を不法占拠している。)

 ためになるものってのは、読み手だとしたら私が決めるもので、誰かに読んでもらうものを書いていたらそれは読み手の他人が判断するものなんだけど、でも自己判断もしていいと思うし、時折しょうがないなと感じることも多い。自分の判断をあまり書いているときに影響ないようにする工夫が必要だよね。これは大学、大学院の時には眠さとか疲れ、締め切りの近さでごまかしていたのだが、それではクオリティが上がるわけがない。そういう時にマインドフルネスとかが必要だったわけだ。物が書けないんですよ。とにかく書いて書いて書きまくるのが必要(そののちに削るのがいいらしい)って言われても、私は書きながら読んでしまうし、突っ込んでしまうし、疲れてやる気がなくなってしまうのです。
 もしかしたら読んでしまわれる方もいるかもしれないんですが、完全に日記替わりにこれを利用しているため、全体的には人にお見せできるようなものではないものなのですが、そもそも読む必要があるものかどうかは私が考えるべきものではないので、こういうものが必要な方ってものもいるんじゃないでしょうか?しらん。これは自分のためのものだ。でもその結果が他人のためになるかもしれないし、ならないかもしれないし、それは私の関知するところではない。ない。だからこの話はここでおしまいなんだ。

 価値って差別的だし、それで仕方ないものなんだ。自分がいいと感じるものは、自分の近くにあるものだから、その時点でほかのものとは違う。これが好きの反対は嫌いじゃなくて無関心の正体だと私は考えている。区別と差別は違うのは、実際自分にとってはあまり自明なことではない。区別と差別の違いは、それがどのようなものなのか事後的に判断するか、事前に判断するかの違いだ、とかいい、悪いをその属性で判断したとき、それが差別であるとか書かれることが多いですし、ある程度納得できる言説なのではないでしょうか。
https://note.mu/oh_mai_canada/n/n7c290757c345
この辺いいことかいてありますよ。たまたま見つけただけですが。
でも、本当に属性で判断しないってことはできることなんでしょうか。確かにある人が性犯罪を犯し、実刑を受け十年後に出所したとしてその人がまた同じような犯罪を犯すかどうか、ということを判断するのは差別であるのか、あるいは区別であるのか、実際的にはわからないことではあります。それが対国であるのなら、それにより追加の制裁がある、というのは不当であると思われるでしょうが、それが近所に住んでいる人だとすれば、個々人が警戒し、取り扱いを変える動きをすることはやはり差別でしょうし、これも不当であると思いますが、本当に実際的に差別されないということもまた難しいのではないでしょうか。
人生では非常に数多くの人と出会うのに、それぞれひとりづつしっかり見て、本人の性格人となり云々をしっかり見定めてどうのこうの、ってのは無理なんじゃないかなあ、と常々感じております。あ、この話は別枠でします。「私が価値判断をしたくなかったと感じたこと、その理由と意味」とかで。後半は後で気づいたことですね。

 疲れたので終わります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?