ルフオノイアの人々 2/3
6.冷たい麦畑
ルフオノイアは、大陸随一の芸能都市である。
その規模の肥大と同時進行した腐敗の中、踏みにじられ続けた下層階級の尊厳を取り戻そうと、特権階級の転覆を狙った革命勢力の動きが、この十年来激しさを増していた。
『街』から離れたある村に住むオーリエ・ヒールは、今年で二十四歳になる。
十年前から居候している家の、同い年の長男から、ある朝求婚された。
「私を、ですか。でも……」
オーリエは、ある少年の手引きで十年前に歌劇団から抜け出し、彼の故郷である村のこの家へ逃げて来た。
オーリエに求婚した長男はその少年の幼少期の親友であり、一家は何も言わずに彼女を匿ってくれた。
早くからオーリエに惹かれていた長男が、これまでそれを隠して来たのは、ひとえに親友への遠慮からだった。過激な私兵を持つ歌劇団からの逃亡は、手引きした者も只では済まないから、当時十四歳の親友は特別な好意をオーリエに寄せていたに違いない。しかし。
「君が、あいつ――ジレルのことを気に掛け続けているのは知っている。俺もそうだ。でも、もういいとも思う」
彼はオーリエを逃がそうとした際に、歌劇団の私兵の矢で頬をえぐられた。あの鮮血に染まったジレルの顔を思い出すと、オーリエの胸は今でも詰まる。『街』に残った彼は、どうなっただろう。
長男は、返事は待つと伝えた。
その夜、オーリエの部屋の窓をノックする者がいた。
窓の外の人影の頬には、大きな傷があるのが見えた。
暗闇の唇が、「僕だ。ジレルだ」と動いた。
オーリエは転がるように家から出た。
長男は、半開きになったドアが風に軋む音で目を覚まし、外へ出てみると、悲鳴が聞こえた。家の横の麦畑で、オーリエが黒い影に組み敷かれている。
長男を見て、影は逃げた。
地面に横たわるオーリエの顔は叩かれて腫れ、服は破れていた。長男は激高したが、
「待って。あの人、ジレルなの」
泣きながら、オーリエが長男を止めた。
――馬鹿な。しかし、歌劇団の連中の私刑は、想像を絶する過酷さだと聞く。
――親友は、奴らに捉えられ、心を壊され変質してしまったのか。また、どうやら彼女は自らドアを開けて出て行った……
オーリエだけでなく、長男もまた、深く打ちのめされていた。
夜が明けた。
オーリエは部屋から出て来ない。
朝食時に、来客があった。客が名乗ると、長男は絶句してから唸り声で告げた。
「ジレル。今更何しに来た」
「済まない……オーリエは?」
長男の嗜虐心に、一気に火がつく。
「会わせると思うのか。俺達は結婚する。お前の友人も居場所も、もうここにはない。消えろ、不幸の種め」
ジレルは「……そうだな。今更だった。幸せに」と呟いて去って行った。
長男は、唾を吐いた。
二ヶ月後のある日、一人の中年男が長男とオーリエを訪ねて来た。
男は革命兵の一員だと名乗った。
「あなた方には言っておきたくてね。ジレルなんですが、あれは歌劇団から長く拷問を受けていました。根城やらを聞き出す為、自白剤もたんと打たれて、ぼろ雑巾のようになって、用済みだと放り出されたのが二ヶ月前です」
「……ふん」
「ここへ来たでしょう。他に身寄りもなかったようだし。で、この間、あれは『街』の裏路地で野垂れ死にました。内臓が薬と栄養失調でほとんど駄目になっていたから、別にあなた方のせいじゃない」
「……何が言いたい」
「ひと月ほど前、『街』で小競り合いがありましてね、その時に拷問屋くずれのゴロツキが吐いた。ジレルの自白の時に、昔逃がした元歌姫が郊外にいることを聞いて、少々役得しようとその女を襲いに行ったとね。そいつはジレルと似た頬傷があったので、夜なら女を騙して油断させられるだろうと。皮肉なことに、どうやらその翌日に本物のジレルがここへ来た。長くはないと自覚して、最後にお二人に、ね」
二人は息を飲んだ。長男はオーリエを襲った男をよく見ていない。オーリエは翌朝来たジレルを見ていない。
「なあ、ジレルはそれを……」
「死ぬ二三日前に知りました。あなた方には教えるなと言われたがね。彼の戦いは、特に逃亡者であるお嬢さんの為だった。歌劇団は我々の相手に忙しく、一度逃げてしまった者を追う暇はなかった。この村は平和だったでしょう」
長男は、絶句して震えた。
自分はあの日、ジレルに何と言った。彼は、何と言った。
「あの若者はね、馬鹿です。でも我々の求める平和は、利口では追えない」
男は去った。
立ち尽くす二人の前には、麦畑が十年来と同じに、風に揺れながら広がっている。
二人の心中とは、あまりにも裏腹に。
そこには確かに、静かな平穏が湛えられていた。
終
7.血と灰の熱
ルフオノイアは、大陸の端にある一大芸能都市である。
その中枢をなす歌劇団にあって、リース・リストリイは、中心的な存在ではなかった。
歌い子の潮時は二十五歳までと言われる中、彼女は今年、二十八歳になる。
最年長のリースの歌は、今なお最上級ではない。しかし、美貌は優れている。
■
公演の後、私は歌劇場支配人の執務室に呼び出された。
「リース。エドワーズ氏とは良好なのだな」
エドは私のパトロンだ。三十五歳の独身。すべからくパトロンを持つ歌い子の中では極めて異例なことに、彼は私に手も触れないが。
「彼から、君に次回公演のソロを任せろと要請が来た」
私は、足がすくんだ。歌劇団の誰もが目指し、そして夢及ばずに破れていく、最トップの座だ。
「そんな、こと……」
「多額の融資と共にだ。君の歌は、他の歌い子の見本といえる出来ではないが。ただ、君が誰より努力してきたのは皆が知るところではある。君に、その気があるのなら」
寮の個室に戻ると、私は大きく嘆息した。
当然、不安は大きかった。
確かに私は誰より努力してきた。他の歌い子が休み、遊び、パトロンと出掛けている最中も、私は練習室でひたすら歌い続けた。
しかしそれでも、私は歌の力だけで劇場に出ている訳ではないのだ。顔で末席を買ったという陰口が、的はずれでないことは自分で分かっている。
次期公演までは、あと一月もない。
それからは必死だった。
食事は栄養補給のみに努め、喉を守る強い薬を副作用に耐えて飲み、仮眠以上の睡眠を取らずに一層練習に明け暮れた。
毎日のステージも、控えの歌い子に代わってもらった。来月のソロの方が遥かに大切だった。
年齢のこともある。歌劇団内で煙たがられてもいる。恐らくこれが、最初で最後の主役だろう。
言わば、団からの餞なのだ。ならば、最高の形で成就させてみせる。
私はエドを含め、男性に触れられたことがない。駆け出しの頃、好きになった人はいた。本当に好きだった。告白をされた時は、夢ではないかと泣いた。しかしそれでも断り、歌に全てを捧げた。
女として男たちに磨かれ、彼女らの求める幸福を手にしていく同僚を見ながら、私はただ歳だけを取り続けた。
それくらいの犠牲を屠さなければ、本物の才能とは渡り合えないと分かっていた。
これは私の、最後の意地だ。
二週間もすると、睡眠不足と疲労で、嗅覚と味覚が極端に鈍化した。紅茶を淹れる意味がなくなり、白湯にした。
目眩が増え、頭痛と腹痛が重くなり、耳鳴りも酷い。
しかし。
本来のソロは、現公演のメインを歌っている、メリッサ・モアという十八歳の天才だ。彼女の役を奪うからには、それくらいの苦労は何とも思わない。
私がソロを務める公演の当日がやって来た。
異変に気づいたのは、水とスープだけの昼食を終えた時だった。
劇場の周りの人通りが少ない。
そして、大きな声が響いてきた。
「中央広場だ! メリッサが、ゲリラ公演をやってる!」
頭を殴られたような衝撃だった。
気づいた時には、広場に向かって駆け出していた。
認めていなかったのだ、メリッサは。
顔だけの女が、歌劇団の主役を務めるなどと。
「私だって……努力したのよ。私だって、やれる……」
呟きながら駆ける。
広場は満杯だった。
私が劇場に集められるであろう人数を遥かに上回っている。
メリッサは壇上に立ち、今まさに、大きく息を吸い込んだところだった。
そして。
放たれた歌声は、一瞬でその場の全員を魅了した。
演目は、今日これから私が歌うのと同じ英雄曲だった。
音響設備も何もない野外で、メリッサの声はしかし、弾けながら膨らむ。
クラップや嬌声までも巻き込み、飲み込んで、倍加させて打ち放つような歌声。
胸を高鳴らせ、高揚が爆ぜる、稀代の声だ。
歓喜する人々の熱狂の中、私はただ一人打ちのめされて、両膝と両肘を地面についた。
涙がぼろぼろと落ちる。
見ろ。
見ろ。
見ろ。
聴け。
あれが本物だ。あれが才能だ。
努力では決して手に入らない、産まれた時に定められていた運命の形。
徒労でしかなかった私の戦い。
この後に、私が劇場で歌う?
質の悪い冗談だ。悲劇に過ぎる。
いや、喜劇か。
私は狂ったように笑い出した。
あまりに激しく笑ったため、限界間際だった喉が破れて血の混じった咳が出た。
これでは歌えない。
よし、死のう。
私は広場に背を向けて駆け出した。
その時、後ろからメリッサが私を呼んだ。
「それで歌うんだよォ!」
それでかろうじて私は、川ではなく劇場へ足を向けた。
死ぬのは、歌ってからだった。
破れた喉で。敗北者の魂で。
初めて、歌を、誰かに届けられるかもしれないと思った。
終
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