ひいばあちゃんの謎
デスマーチ明けに何を想ったのか炎天下を散歩して、本当だったら食あたりになることはまずないようなしょうもない雑菌で腸炎を起こした話が、予想外にバズってしまったので、このマガジンの読者様が微妙に増えました。怪我の功名なのかなんなのか。
大体の災厄は寝不足からくるし、私はこの日記のタイトルの通り、寝不足じゃないことがレアなので、真夏の衛生にはみんな気を付けような!
あ、腸炎については軽症のうちに病院にいったおかげで、おおごとにはなりませんでした。強いて言うなら点滴あとが気持ち悪い色のアザになったのが哀しい。いつ治るのかな。
それはともかく、せっかくなので夏のお話をしようと思いまして。
あんまり明るい話でもないのですが、思い出したので。
私の曾祖母(つまりひいばあちゃん)は99歳で大往生しております。
一度も会ったことはないのですが、とにかく長生きなばあちゃんだったので(祖母の方が早く亡くなった……)たまに話題には出ていた。
私が子供だった時点で、もう結構なお歳であるから、すっかりボケていらっしゃったのだが、何故か強硬に主張していることがあった。
「戦争で戸籍がごちゃごちゃになって、妹が死んだのに姉の私が死んだということにされてしまった」
「だから私はずっと妹の名前と年齢で生きている」
曾祖母のいた町、それは広島である。
でも第二次世界大戦でそれが起こった、というのはどうにも考えづらいのである。
何故なら、その時曾祖母はすでに結婚しており、子供たちも成人するほどの年齢だったはずだからだ。
曾祖母の息子(私の祖父)は戦時中は満州にいた。私が一人遊びをしていると、たまに軍歌らしきものを口ずさんでいた。
そして祖父は長男でなく、上に何人か兄がいる。戦争で亡くなった人も、若くしてなくなった人もいる。
つまり、第二次世界大戦の時点で、祖母には成人済みの身元の確かな家族が何人もいるのである。
ちなみに、広島出身ではあるのだが、我が家の家族は被爆者ではない。祖父は満州に行っていたし、農家であったというから、曾祖母もきっと、被害の少ない郊外に家をもっていたはずだ。
そして、第二次世界大戦以前の戦争で、戸籍の取り違えが起きるほど混乱した事態が、広島で起こっただろうか?
この謎は、結局、曾祖母の面倒をみていた家族にもわからないものであったらしい。
ただ、痴ほう症になっても不思議と「昔の印象に残ったことだけは強烈に覚えている」というし、完全に妄想のできごとだったとも言い難い。
祖父は大正時代の生まれであるから、曾祖母はおそらく明治の中期~後期くらいの生まれだろう。
多分、曾祖母は日清戦争前後くらいの生まれである。
その後日露戦争なども起こっている。
明治初期なら戸籍自体が作られ始めて年月が浅かったので、割といいかげんだったという。おかげで明治時代の著名人は微妙に生年月日が不詳の方も多い。
とはいえ、明治時代も半ばになってまで戸籍がぐちゃぐちゃとも考えづらい。
そうなると考えられるのは
「妹が死んだ時に何らかの事情で曾祖母の家族が、姉の方に死んだということにした」
というケース。もし物心つく前で、戦時中などに「実は貴方は本当は姉の方で……」という事実をうちあけられてそれが曾祖母のなかで「戦争のせいで戸籍を変えられた」という形で記憶が蘇った、というケース。
「日露戦争などで従軍した妹が亡くなったのを、取り違えられた」
というケース。女性でも看護師などで従軍した例はある。死亡した方もいる。看護師で死んだ方は病死だったらしいけど。
曾祖母の家は農家だと私は思っていたが、それは祖母が農家に嫁いだから云々言っていたからで、よく考えたら単に祖父が満州で農業やってたから「私は農家に嫁いだ」と言っていたのであって、曾祖母の家は別に農家でもなかったかもしれない。曾祖母やその家族が何の仕事をしていたのかは、実は何もしらんのである。
看護師目指した妹さんだったかもしれない。妹さんの人物像が全然わからないので完全に、ありえたケースのお話だ。
あとは、これが一番可能性が高そうだと思うのだが
「何らかの理由で曾祖母や曾祖母の家族が、戦時中に意図的に妹の死亡届を姉のものとすり替えた」
つまり、曾祖母や曾祖母の家族が、納得ずくで妹さんの死を隠ぺいしたのではないか、ということである。
戦争のごたごたで。
そうなる事情はわかりかねるけど、でも曾祖母がいた場所は広島だ。
もし妹さんが広島以外にお住まいだったのなら「亡くなったのは広島の姉で私は妹の方です」と言った方が生きやすかったかもしれない。
そんなことになったら、祖父はいくらなんでも知っていそうなものだけど、祖父は戦争についてついぞまともな話をしたことはなかった。
小学校の頃、夏休みに「祖父母に戦争のことを聞いてこい」という今にして思えばデリカシーゼロな宿題が出されたが……。
祖父は「行ったけどすぐ戦争が終わったからおみやげ買って帰った」と答えた。
実際には、祖父は出征していたし、朝起きる時にならすんだと言って、たまに軍歌のフレーズを鼻歌で歌っていた。無口でぴくりとも笑わない祖父が、戦争のことだけは冗談でごまかした。
私の祖父は戦後入植者である。
満州から引き上げた後、故郷の広島には帰らずに夫婦で北海道にきて入植した。
広島には帰らなかった。
私が記憶にある限り、祖父は広島に帰らなかった。
もちろん、全く帰らなかったわけではなく、私の兄が小さかった頃(私は乳児だったので連れて行かれなかった)一度だけ行ったというが。
ついぞ、広島には帰らなかったし、広島の話をすることもなかった。
たった一度も、広島の話をしなかった。
祖父は曾祖母の本当の名前と年齢を知っていただろうか。
今となってはもうわからない。
祖父も89歳でなくなった。大往生だ。
ちょうどお盆よりも少し早い今くらいの時期、私が早めの帰省をしたその当日の早朝になくなっていた。まるで私がお通夜から葬式まできっちり出られるタイミングを、狙い澄ましたかのように亡くなった。
予定通りの特急で地元近くの駅について、まずやったことが喪服を買うことだ。
真相はわからないけれど、曾祖母はそれはそれは安らかになくなった。お歳がお歳なので老衰だ。
「あの話が本当なら、本当は100歳だったかもね。ちょっともったいなかったね」
「ひいばあちゃんの名前、クマだけど、本名って何かな。トラとかタツとかツルとか?」
そんな会話が交わされたくらいには、幸せな最期であった。
クマっていっても漢字が熊じゃくて隈とか久万とかの方の字だったら、本当に曾祖母の本名に想像がつかないな……。あの時代の方、カタカナやひらがなで書くからな……。
今となっては、曾祖母の本名が知れなかったことだけが気がかりです。一度くらい会っておきたかったな。
私にとっての広島は、毎年親戚(本家がなくなっても、あちらに嫁いだ叔母がいる)から送られてくる広島菜の漬物のイメージである。
あちらの友達が送ってくれた牡蠣せんべいが、神がかり的に美味しいというイメージである。
広島の現地は、高校の時に修学旅行で原爆記念館に行かされたのが最初で最後の思い出なのだが、せっかくだから厳島神社を見に行きたい。
原爆記念館や原爆ドームを残すのは、大切なことかもしれないけれど、
私は広島の牡蠣を死ぬほど食べたい。(腸炎になったばかりとは思えない発言)
豪雨被害で広島の牡蠣が大ダメージときいて私は大変にこまっている。牡蠣せんべいが!私の牡蠣せんべいが!
私の広島のイメージは今までも「美味いもの」だし、これからも「美味いもの」です。
多分曾祖母と祖父は、その方が喜ぶだろう。
牡蠣せんべいはいいぞ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?