創作と価値観の勝利

最近は歴史や伝承を元ネタのお名前そのままにアレンジしたゲームやら漫画やが大変流行っているので、史実や伝承の人間に失礼があってはいかん!という圧力を強めすぎてガチガチになっている方が多いのではないかと思うことがままある。

私は元々一次創作沼の人間であるし、昔から面白いものはジャンルなんでもヒョイパクする人であったので、「ええー、今更でござるかー?アレもソレもあるのに今更でござるかー?」みたいなところがないでもない。

そりゃあ、ハマりたての頃は有頂天になってしまうのは大人も子供も一緒でして、誰しも多少やらかしがあったりもする。私も文豪沼にハマった初期には色々やらかしてしまったな、これはまずかったな!と猛省したいことも多々あるのだが。

大元がウェルカム体勢で「興味をもってくれるなら、嬉しいよ!」と大手を広げてくれているのに、「失礼がある!」って横から無関係の第三者が殴ったりしてたらそれはそれでどうかと思う。

かといって、歓迎されているからとキャラと史実・伝承をごちゃごちゃにして小ばかにしていいわけでもない。怒られない程度に節度を保ち、やらかしたら素直に謝るが吉である。

もう戦国武将やらがエロゲでおっぱい揺らしていることが珍しくないこのニッポンにおいて、世界各国の史実要人が異世界でエルフやドワーフ従えてドンパチしたり、キリストとブッダが一緒にまったり日本を楽しんでいる漫画が売れまくるこのニッポンにおいて、個人の価値観で「何が正しく何が間違っている」を決めるのはナンセンスな気がする。

「リスペクト元に敬意を」というのはあらゆる創作において同じであって、歴史で有名な人物とかを一方的にぶん殴って回る漫画とかがあったら普通にイヤじゃないか?という話であった。だからといって、個人の判断でリスペクト元に敬意を払えって殴り回っていいものでもなし。

この辺、いわゆる干物ジャンルは難しいところだと思うのですけど、ジャリジャリ金を落とした結果刀剣文化をだいぶ潤したとうらぶみたいな事例もあるのだし、カリカリしすぎずに行こう!と思うのです。

史実はいっさい見ずにゲームの知識だけでキャッキャウフフしてても、もちろん自由なのだし。

ああ、でもとうらぶの山姥切国広の「写し」を「贋作」のことだと勘違いしたら(初期はよく勘違いされたし、私もしっかり調べるまで良く分かってなかった)、まんばクラスタだけではなく虎徹兄弟クラスタまで巻き込まれ被弾してややこしいことになるなんて例もあったので「楽しむために最低限ここは間違えないでおいた方がいい知識」は頭にいれておいた方が色々安心だぞ!!

やらかしてしまった時はどうしよう……ということなのですが、殴っても殴られても基本的にいいことは1ミリもありません。

殴る方も殴られる方も元ネタ側も全然いいことありませんので、辞めておきましょう。

・間違った情報を流布してしまった場合、なるべく真摯に訂正する

・美術館、博物館、文学館などにお行儀よく通う

・特別展や講義や祭典などに参加したらアンケートなどに答えてプラスの口コミを残す

・課金する(入館料とか参加料に)

・課金する(その施設で販売してる資料やグッズに)

・課金する(寄付やクラウドファンドの支援などを無理ない範囲で)

出禁にされるようなやらかしでなければ、お行儀よくにこにこ笑って課金するのが一番だと思います!!!!!(お財布握りしめながら)

やらかさないで済むならそれが一番です。でもほら、その愛がすべってると「アレは失敗だったー!」はありがちなので。

で、リスペクト元に敬意を、の話にもちょっと関わるのだが……。

国内外の武将にしろ、海外の王や騎士にしろ、文豪やら何やらにしろ、その時代・その世界観での「常識」を生きていたわけであるので、現代の基準で「こんな酷いことをやっているのに偉いわけがない」という視点を持ち込むと、またややこしくなってしまう。

文豪さんたちなんて、それはもう、DV野郎だのヤクキメ野郎などがわんさかいてしまうのだが、よくよく調べてみたら「奥さんを殴るというよりはこのこの時代の人、喧嘩になったらとりあえず男女問わず殴る」だな……という世界観であったりする。明治のニッポン。ほんの十数年まで斬り捨て御免の世界やってた国である。ヤクにいたっては当時の合法である。

もちろん、奥さん殴らない人もいるし、ヤクキメない人もいるのだが

それはその時代において、その価値観を持っていたその人がすごい

のであって、現代の価値観にそって「悪いことをやらかしていたので悪い」をやりだすと、百年後には現代の社畜全員が「正しく権利を主張せずに労働環境の劣悪さを助長した悪人だらけ」とされるようなものである。されそうな気もするけど。

でもまぁ、戦国武将を現代の価値観でもって殺人鬼と呼ぶ人はいないわけでして、やっぱ中途半端に今の価値観と昔の価値観を混ぜ込むのとようわからんことになるのだ。

創作キャラだって、ホームズがアヘンキメキメだったからといって彼が名探偵であることを疑う材料にはなりませんしね。(そもそも当時のイギリスはアヘン合法ですしね)

うっかりゲームからハマって、作家の作品にも手をだした国木田独歩などは、DVもしてるし、病床に愛人つれこむし本当にろくでもないことをやっているわけだし、良妻として名高い奥さんですらそこは一切庇ってないので、良くないところがあったのはその当時の価値観をもってしても火を見るより明らかな方である。

でも、一方で、立ち上げた出版社で日本で初めての女性カメラマンを起用していたりと、女性を完全にないがしろにしていたかと思えばそうでもない一面もある。

国木田独歩の作品『窮死』では、肺を病んだ身分の低い日雇い労働者の青年が、同じ日雇いの仲間に救われて宿を得たら、宿を貸してくれた日雇い仲間の父は自分よりも上の立場である車夫に殴られ無残に死んでしまったことを知る。そして救われぬ現実についにやりきれなくなり、列車に轢かれて死ぬ、という話である。

この作品は芥川龍之介の『河童』でも(タイトルは出していないけど)触れられている。河童の国に(何故か)国木田独歩の半身像が祀られていて『轢死者の心を解する詩人』とされているのである。

すでに故人であった国木田独歩が、どれほど当時の文士に親しまれていたかがわかると共に、殴り殴られが当たり前だった時代に「殴られ殺された者への哀悼とやりきれず倒れた轢死者の無念」を理解するのが国木田独歩である、と芥川龍之介は解釈していたのだろう。

別に暴力や愛人が当時当たり前にあったからいいとはひとことも言っていないが、それだけが人間の一面ではないし、価値観が違う時代に生きていれば少なくともビール瓶やら椅子やらもってすっ飛んではいかなかっただろうな、という文豪も多かろう。

体罰や家庭内暴力がよくないこととして認知されたのは、意外に最近である。私が小学生の頃には、スクールウォーズで体罰シーンが堂々流れていた。再放送が多いドラマだったとはいえ、年代がばれる発言である。

ヤンキー高校のどうしようもない不良共を、熱血教師が更生させて強豪に育て上げる青春ドラマである。THE昭和。歳がばれる。

でもそのドラマ(本当にOPが学校の窓を椅子で割るシーンから始まるようなTHEヤンキー学校)の世界観ですら、体罰をする時に「これで体罰と呼ぶなら甘んじて受けよう」的モノローグが入るのである。

体罰シーンの是非はひとまずおいておくとして、体罰が当たり前だったその当時でも、体罰はいけないことだという価値観を提示していたとも言う。

多分、私がそれを覚えているのは、それくらい印象に残ったからなのだ。

だから、昔の人物のやらかした数々の「悪行」について「それは悪行である」と感じることができるのは、それを悪だと認め、社会に浸透させた現代の価値観が勝利したということ。

ま、ヤクとかは普通に価値観関係なく心身に明確な悪影響があると判明したので、違法になったのわけですので、価値観の変化とは事情が違いますけど。

そういえば、古代ローマ人の奴隷は貴重な労働力であったので、殺すような過酷な労働はさせなかったとか(担当する仕事の割り当てによってはやっぱり『奴隷』としかいいようがない労働も多くはあったっぽいですけど)、ピラミッド建築の奴隷は案外待遇が良かったなどという話もありましたね。

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現代の社畜の価値観、古代の奴隷制度に敗北しているのでは……?



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