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祟り神はどこにでもいる

私も「祟り神」になりやすい気質だと自覚しているので、自戒を込めてのあれこれ。

なにかを一度批判しはじめたら、どこまでも相手を追い詰めないと気が済まない状態。それは私は「祟り神」と呼んでいます。

誰にでもその素質はあって、全く「祟り神」になる可能性のない人というのは、聖人か何かだと思う。大なり小なり、人には「祟り神」になりえるスイッチがある。

「祟り神」にも種類があるように思う。

1.一度嫌だと思ったものは近づけたくないタイプ

2.嫌だと感じたものを徹底的に排除したいタイプ

3.嫌だと感じたものに対して共感して欲しいタイプ

どの要素もそこそこ持っている人もいれば、1つだけ強いタイプもいる。私は1番目がめちゃくちゃ強い。関わりたくないけど、近づいて来たら威嚇して「近づくな!お前のこういうところが嫌いなんじゃ!わかったか」と思わず主張してしまうタイプ。

スイッチが入らない限りは、通常運転で、特定のワードに反応して脊髄反射で拒否してしまう。自覚してグッと抑えられてる場合もあるけど、まぁ抑えるのに失敗したりもする。まことに申し訳ない。

1のタイプはいわゆる「地雷持ち」というやつなので、割と軽症か重症はともかくとして、比較的「そういうことある」という方も多いのではないだろうか。そうでもないっすか。そうっすか。

いや、別に1番なら別にOK!と言ってるわけでもないのですが、誰にでも陥る罠ではないかな、というのはこの辺りです。

この辺はオタクに限らずで、私の場合は実家や親の話が結構地雷でして。「殴る蹴る」とか「育児放棄」とか「経済的DV」とかあったりするとわかりやすく納得してくれる方は多いのですが、「毒っていうほどでもないけどちょいちょいアウトなことをやらかす親」がいるので、「それくらいのことで」とか「もっと酷いケースもあるのに」とか言われると「ハァー?」ってなるし、一度実家の愚痴を言いだすとネチネチ止まらなくなることがある。誰の共感も得られないのに、気が済むまでずっと呪ってしまう。まさに祟り神である。誰の共感も得られないのに。共感すら得られないのに!

共感を得られないということは学んでいるので、ある程度はいたら止まるけど、まぁ、それで私を嫌う人は多いのだろうな、とは感じる。

私の祟り神スイッチは「実家と親の対応」と「自分の好きなものを別の何かと天秤にかけて貶す人」で、スイッチONだと急にSAN値が直葬されるので、特に後者は普段はできるだけワードミュートとかで対処するけど、それでも被弾する時は被弾する。哀しみ。

でも、祟り神としてヤバいのはどっちかというと

2.嫌だと感じたものを徹底的に排除したいタイプ

3.嫌だと感じたものに対して共感して欲しいタイプ

で、実際に標的を定めて攻撃をし始めるタイプ。愚痴や批判を通り越して、あれもだめだこれもだめだやめろきえろって、どんどんエスカレートするタイプ。

最初は冷静な批判だったはずが、だんだん芋づる式に批判箇所が増えていって「今、それは特に問題じゃないですよね?」「それは単に貴方が気に入らない点を、今回の問題に結び付けているだけですよね?」というのが公開型SNSが一般的な時代になってから格段に増えてきたように思える。

2と3は度々結びつく。というか、基本的に「仲間を呼ぶ」ものだと思っている。本来全然問題ではなかったようなことが、びっくりするほど大炎上するのは、どんどん怒りを共有する仲間を呼んで、本来何が問題だったのかわからないまま「なんだって!それはけしからん!問題だ!」と拡散していくから。

第三者が「そういう問題ではないのでは?」と言っても、その件に関わりがあれば「信者め!擁護だ!」と攻撃されるし、外野からだと「何も知らないくせに」と言われる。批判を批判する人は、正義ではないとされる。

こうなると、自分の「信念」基づいて戦い抜くようになってしまう。アンチになった人が、離れればいいのに何故か執拗にその場に残って、「嫌い」なはずのものをじっと監視し続けるのはそういう部分が多いのではないだろうか。

自分の正しさを証明するために、常に監視して、少しでも攻撃できる部分があるかどうかチェックしてしまう心理。自分の正しさのためには、相手がずっと打ち倒すべき敵でなければいけない。

これは2ちゃんねるが全盛のころからあるものだと思う。古くは井戸端会議の悪い噂まで。つまり、最近生まれたわけではない、もうずっと前から人間の根っこにある感情。

ネットの世界で昔と変わったのは「匿名だから炎上させられる」から、「個人でも仲間を呼んでひとつの共同体になることで、ある程度の勢力になれる」に移行したという点だと思う。

でもまぁ、本当に批判されて当然の案件であった場合(たとえば明らかに法律に違反していたり、差別の温床となるような案件であるとか)、それが動力となって解決に向かう場合もあると思うので、何もかも全てケースバイケースだと思います。

一番の問題なのは

3.嫌だと感じたものに対して共感して欲しいタイプ

だった人が

4.共感を得るために標的となるものを物色するタイプ

に変貌した場合だと思う。

私の体感で申し訳ないのだけど「炎上させるためにコンテンツや個人を監視している」タイプの人間が存在するように思う。

炎上させることが目的になっているタイプ。

今まで、話題になったソシャゲでトレパク関連の噂が全く立たなかったことがあっただろうか。割とどのジャンルでも一度は被弾してる系統の問題な気がする。

ゲームが気になってぐぐってみたら、検索候補に「パクリ」とかが一緒に出てくる時代。

とあるゲームについて、トレパク(というにはちょっと無理やりすぎないか?と私は感じた案件だったのだけど)が発覚した時「やっぱりやっていたか」と嬉しそうに言っていた人のことが、私は今でも忘れられない。ゾッとした。

よくこういうことを言うと、これだから女性向けは、という話になったりしますが、元々トレパク検証とかよくされていたのは男性向けのエロゲだったと思うし、そこから漫画のトレパク検証が流行し、それが今はソシャゲやブラウザゲーに標的が移動している感じがする。

パク検証だけではなく、他にも様々な問題で言えることだと思うのですけど、とにかく問題の本質に関係なく炎上しているのを眺めるのが趣味、という人間が一定層いるように思うのです。

中にはそういう炎上仕掛け人に負の感情を植え付けられて、祟り神になってしまう人もいるわけですよね。

それってすごく怖いことではないですか?


祟り神にならないための自衛が必要な時代だな、と思います。

負の感情しかわかなくなったら、一時的にでも離れなければいけないのだろう。

祟り神になってしまったら、それを自覚していたら、「どうして自分はこんな風に祟ってしまうのか」と自己嫌悪になる。

祟り神の自分に気付いていなかったら、それはそれで、マイナス方面に感情のリソースを全部もっていかれるし、知らずに不幸をまき散らしてしまう。

祟り神を浄化できるには、基本的に「自分が納得できるパーフェクトな回答(いわゆる神対応)」が得られた場合だけのように思える。それは難しい。誰もが納得できる神対応など、基本的に存在しない。八割の人は納得する神対応でも、残りの二割くらいは「でも〇〇が許されるわけではない」という反応になるだろう。

一度おさまっても、スイッチが入ったらまた祟ってしまう。

そうならないように、なるべく人を祟らない生き物になりたい。

でもやっぱり、嫌悪感を持ってしまったものは、なるべく関わらないようにしていても、自分が好きなものが嫌悪対象に近い位置にあった場合、どうしても被弾することがある。

頭の血抜きが必要だ。自分は特に、その時のメンタルに言動が引っ張られやすいから。

ネットの社会に限らず「特定の属性に祟ってしまう自分」はやっぱり存在して、必要なのは自分がなるべく祟らずに済むようにすること、別段悪くない人を執拗に追い詰めないようにしなければと猛省する。立ち止まる勇気。

いい大人になるのは難しい。いい大人のくせに、になるのは簡単なのに。


頭が冷えたらこの日記は非公開にするかもしれないけど。

祟り神になるかもしれない自分との付き合い方については、私はこれからも考えるし、少しでもこの日記が響くところがあれば幸いです。

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