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サイババ体験談④


ツアーのインド滞在最終日は忙しくて、私は水を飲んだり買ったりするヒマもありませんでした。

泊まっていた部屋の掃除をして、とにかくみんなに遅れないように荷物を持ってバスに乗り込んで一息つくと、手持の水がペットボトルの底に1~2センチほどしか残っていないことに気がつきました。

これではその後数時間のバスの移動中の飲料水2人分(母と私)としてはとても足りないし、その時点ですでに私は何時間も水分を口にしていなくて、しかも高熱と下痢と生理3日目の状態でしたから、水分補給は絶対必要でした。

母に、バスを降りて、近くの売店で水を買ってくると言うと、

「降りてる間にバスが出てしまったらどうするの」
と、止められました。
一人で数本のペットボトルの水を持っている人が同じバスに乗っていたので、通路側に座っている母に

「じゃあ、誰かに言って水を分けてもらって」
と言うと、

「あんたの方が他の人と仲がいいからあんたがもらって」と言われました。


何か変だな、とはツアー中にずっと感じていたのですが、私はもうずっと寮生活をしていて実家にはほんのたまにしか帰っていなかったので、違和感はそのせいだろうと漠然と思っていました。

また、久しぶりに行動をともにする母が何となく重く感じて、ツアー中もあえて距離をとったりもしていました。

しかしアシュラムを去る時になって、どうやらちょっと母は精神のバランスを崩しているらしい、と感じました。
ツアー中も突拍子もない言動が見受けられたのですが、もともと昔から「変わったお母さんだね」と言われることも少なくなかったので、あまり気にしていませんでした。

この時の母は自分の世界と他人の世界との折り合いがつけられず、閉じた自分の世界の中で苦しんでいるように見えました。

私は、今私が「そう?」と言って、ほかの誰かに水をもらいに行くと、私と母の間にあるつながりが切れて、取り残された母は完全に独りの狂気の世界に住むようになってしまうような気がしました。

そしてそういう状態は避けなければいけないと感じました。


なので私は水を買いにも出ず、誰にももらわず、そのまま窓側の座席に座っていました。
そしてバスは間もなく発車しました。

母は
「のどが乾いたー」「のどが乾いたー」と言っていました。

手持のペットボトルの底に残った水を
「飲んでいいよ」
と私が言うと、母は

「いいの?」
と言って飲み干しました。

私が知っていた、常に子供たちに献身的な母はそこにはいないと知って、また、私は大学に入るまでは母子関係がすごく密接だったものですから(多分共依存。私は家を出て晴れ晴れしてたのですが、母は寂しかったようです)、少しショックを受けました。


母はその後もまだ「のどが渇いた」と言っていて水分が足りなさそうでしたが、手持の水はもうないので、その後は私も母も黙ってバスに揺られていました。

スムーズに走れば4時間半ほどでバスは空港に着く予定でしたが、この時は途中で故障があったかなにかで遅れて、6時間以上バスに乗っていたと思います。

私の身体は空港に着く前に脱水症状で限界が来ていました。
吸い込む空気は燃えるように熱く、呼吸のたびに肺を焦がしました。
あー、これはほんとヤバイなーと思いました。
そのまま何も手を打たないことの先には確実に肉体の死が来るのを感じました。

しばらく、ヤバイな、ヤバイな、と思ったのですが、そのうち、もういいや、とあきらめて気分が落ち着きました。
そしてバスの車窓から暗やみに流れ去る、街のいろんな色の温かな光を眺めていました。


窓の外を眺めながら、実家の他の家族たちは母のこの状態を知っていて、私に知らせなかったのだろうか、とか、日本に帰ったら大学を休学して実家に戻るべきだろうか、など、とりとめなく思いをめぐらせていました。

自分が家を出て青春を謳歌している間に母が精神を病んだという認識(それが果たして事実だったかどうかはいまだに分かりませんが)は私にとって、とてもショックでした。

夜更けにようやくバスはバンガロール空港に到着し(プッタパルティを出たのが午後3時か4時ごろで、空港到着は午後10時を過ぎていたように思います)、みんなまず空港で何か飲み物を買い求めたと思います。

ところが夜遅かったからか、ミネラルウォーターを売っているはずの売店は閉まっていて、コーラなどの炭酸飲料しか手に入りませんでした。

わたしはやっと水分が取れると思って、コーラのビンを持ち、ストローで飲もうとしましたが、のどが渇きすぎていたからか、炭酸の泡がのどにつかえて一口も飲むことができませんでした。

「もういいや。」
と思って母に持っていたコーラをあげると、母は
「いいの?」
と、2本目を飲み干しました。

トイレに行って、鏡で自分のげっそりした顔を見て、「私はどうなってしまうんだろう?」と思いました。


1995年当時のバンガロール空港は今の新空港と違ってこじんまりしていました。
私たちが空港内にいたときにはしばらく停電にもなりました。


私は肉体を維持する生存本能をあきらめて、意識はますます軽やかさを増していました。


母の分の荷物も肩に担いでチェックインしに行きました。

しかし体力的にはすでに限界できつかったので、ツアー参加者の中にエネルギーの高い澄んだ人を見つけてそばに行き、その人のバイブレーションに共鳴することでエネルギーチャージをして、気を取り直してチェックインの列に並びなおしたりしました。

そうこうしているうちに、ふいに、インドに来る前に日本で読んだ新聞記事のことが思い出されました。
その記事は更年期障害によるうつ病に関してのものでした。

そのとき突然私の中で母の状態がストンと腑に落ちました。

あ、あれか、と。


その瞬間までは母の状態に関して、「なぜこんなことに?」とどこかで問い続ける自分がいたのですが、その記事を思い出したことにより納得がいき、とにかく気持ちの整理がついた私は同時に母と自分のすべてをその関係性も含めて全部受け入れて愛しているような状態になり、私の意識をさえぎる影がすべて消えました。


そして完全に幸福であらゆる影の消えた、とどこおりのない私がそこにいました。

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