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サイババ体験談⑤


チェックインもセキュリティチェックも終え、ロビーで機内への搭乗を待つばかりになった私たちの上にアナウンスの声が流れました。

それは、わたしたちが乗るはずの飛行機の到着の遅れを告げるアナウンスでした。
早朝から起きていてすでにくたくたに疲労困憊していたツアーの人々の間から怒りの声が口々に上がりました。

私はというと、ツアー前に見たインドが舞台の日本映画で、同じように飛行機の遅れで人々が不満を漏らすシーンがあったので、あれと同じだーと、かすかに愉快に思いました。

それと同時にババが気の毒になりました。
プッタパルティでは来る日も来る日も毎朝毎夕ババは休むことなく集まった群衆にダルシャンを与え続けていて、そのことだけとってみてもすごいことですが、

プッタパルティではツアーの人たちもそれによく応えてみんながそれぞれ善くあろうと必死でした。

ババに集中し、自ら進んで公共の場の掃除をしたり、忙しいスケジュールの合間を縫ってキャンティーンセバをしたり。

そしてダルシャンではみんな神の愛の中で美しい涙をとめどなく流していました。
みんなが奇跡の時を共有し、幸福に満ちあふれていました。

ところが車でわずか数時間プッタパルティから離れ、まだインドから飛び立ってもいないのに、たかが飛行機が1~2時間遅れると聞いただけで同じ人々がすっかり態度を変えて不満を口にしていたので、気持ちが高揚したままだった私は、

「プッタパルティでババが人々に与えたものはどこに行ってしまったんだろう?」
という感じがして、部外者の視点から、少なからず驚きました。

そして自らを人々に与え続け、今もプッタパルティで常に与え続けているババが、
ツアーの人々が空港であっさり個人性を表して不満を口に出して怒っているこの状況をプッタパルティから見ていて、がっくりして悲しんでいる様子が見えたように思いました。

そんな、人々に惜しみなく与えた自らのエネルギーが無駄になったのを見てがっかりした孤高のババを思うと、ひどく気の毒に思えて、同情のあまり胸が強く痛みました。

突然、私の中で全てが切り替わったのはその時でした。

その瞬間、「ああ、やっちゃった」と思いました。


自分を縛り、守ってもいた個人性のようなものが壊れてしまって、もう元には戻れない感覚がありました。
それと同時に「ああ、やっと」という、長い道のりの末にゴールにたどり着いたときの安堵感がありました。

全てが自分の中で了承されていましたが、あまりの突然の出来事に驚いてもいました。


大量の光の滝の中で私は身動きもできず、ただそれを浴びて一体化していました。
わたしという個人性はその光の圧倒的な流れの中で機能できなくなっていました。

同時にそれまでの私という個人が体験したストーリーの各場面が次々とフラッシュバックしました。
人生の全ての出来事はこの瞬間のために張られた伏線で、今、まさに最後のその場面にたどり着き、その全容が明らかにされ、俯瞰されていました。


わたしは、あー、はめられた、みんなぐる(共謀者)だったんだ。知らなかったのは自分だけだったんだ。と思いました。

私の人生における全ての場面の登場人物たちは私をあざむくために共謀して演技をしていたのでした。
やられたなー、と思いました。だまされていたことにこのとき気がつきました。

まるでみんなでよってたかって一人をだまして、最後に看板を持った人が出てきてネタばらしをするテレビ番組のようでした。
全部が全部、この最後のネタばらしの瞬間へ至り笑うための複線でした。


そのようにして私は突然世界という舞台から降ろされたのでした。
驚愕の真実。しかし全ては了承されていました。

微動だにできない強烈な至福ととどまることを知らない愛が私から全てへ放射されていました。
と同時に、私は完全に一人でした。

なぜなら、演劇の舞台の外へと放り出された私の周りで人々は変わらず劇の役柄を演じ続けていたからです。
やめさせられたのは私だけでした。

ですから、自分の状態を周囲の人に伝えて共感を得るという発想は起きませんでした。
人々はまるでテレビの画面の中の画像のように、見て認識は出来るけれどそれそのものとしての実体の無いものでした。

そして私はテレビのこちら側で一人座って、移り変わり変化する映像を眺めているかのようでした。
私は一人でした。そして全てでした。

「本当は自分しかないんだ」という状態は、至福と同時に猛烈な哀しみでした。
それまでにそんな絶望的で甘美で圧倒的な哀しみは知りませんでした。

そのどうしようもない孤独を思うと、いまでも泣けてきます。
全部、自作自演でした。

神は、体の各部分にそれぞれ名前をつけて、独立した人格があるかのように一人でごっこ遊びをしている絶対的に孤独な、永遠に孤独な存在でした。

それは孤高、と言われるべきものなのかもしれませんが、私がそれを思うとき、その孤独はあまりにも絶望的なので哀しみを強く感じるのです。


それは、この体験をした当時の若い私が、人生に現れたすべての人々を個別の人々として愛し、楽しんでいたからかもしれません。
当時の私は自分個人がなく、すべての人の中に容易に溶け込むことができ、そのような形ですべての人と調和し、世界の人々との一体感の喜びの中にいたからです。

ですから、この体験の中ですべての他人が実体性を失い、逆にすべてが私で、私以外に何も存在しないという体験は、文字通り世界がぐるりと裏返り、愛してそこから喜びを得ていた世界が突然全て失われた体験でもありました。


それはかなりの衝撃でした。
それと同時に、私は完全にすべてを了承してもいました。


私は、全てを知ってる状態、全てをわかってる状態というのは疑問がない状態なんだな、と、その時思いました。

知識が増えたとかいうのではなくて、根本的に全てが了承されているという状態でした。
そしてこの状態というのは、もともと知っているものでした。


長い旅路の末にやっとたどり着いた我が家、といった感じで、既知のものだからこそ、そうなった時にそれとわかったのでした。

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