サイババ体験談⑨
私はインドに来るまでの日常生活の中で、エゴをなくし、宇宙意識の導きによって人生をなめらかに流れてゆくことを心がけていました。
そしてそれは完成した、と感じ、あとは寿命が尽きるまで楽しく幸せに生きるだけだ、もう何があっても大丈夫、と思っていました。
ところが初めてのインドの地で個人としての自分がパチンとはじけてしまい、この宇宙意識そのものに自分自身がなってしまいました。
それは当然といえば当然の結果なのかもしれませんが、
この瞬間、「今、終わりにしてもいいよ」と、人生が前倒しに打ち切られようとしているということは誤算でした。
それは自分が望んでいたことではありませんでした。
私は自分の人生を、寿命が尽きるまで肉体を持って生ききることが大前提としてありました。
私が望んでいたことは楽になめらかに人生を生きることであって、神とひとつになって人生から脱出することではなかったのです。
神とひとつになってしまい、人生の舞台から降ろされてしまったことは失敗ともいえる予想外の展開でした。
「今終わりにする」ということは、寿命が来る前に、この瞬間にただちに肉体を離れて人生を終えることを意味していました。
「うーーーん、それはどうしよう」と、考え込みました。
わたしは中学生のころから体外離脱をよくしていたので、物質的な肉体を離れることに日常的に慣れ親しんでいて、肉体に対する執着や、死に対する恐れはほとんどなかったと思います。
むしろ、死をもって肉体を離れるそのことに対してほのかな憧れにも似た安らいだ気持ちを抱き、待ち遠しく思っていました。
日常を生きてはいても、いつも意識の一部は死の向こう側の甘やかな世界にいて、そこからこの物理次元の世界を見ていました。
ですが、寿命が来る前に自ら肉体を放棄するという考えは自分にとっては意味がなく、それまでに考えたことはありませんでした。
私の望ましく感じる死はあくまで寿命を受け入れる形での受容的な自然な死でした。
ババに問われたそのとき、私には「今、終わりにする」という選択が優等生的にきっと正しいんだろうと思いました。
それまで全ての執着と滞りを手放していく作業を自分でしていたので、この瞬間も、その線にのっとって、この世界を手放したらいいはずでした。
しかし、結果を先に言うと私はその選択をしませんでした。
私の感情は、この世界にとどまる選択をするよう私を促したのでした。
目の前に現れたババに尋ねられたあと、どちらの選択をすべきかについて、私はかなり深く、長く、考え込みました。
自分の考えに集中している間は忘れていましたが、時々意識をババに向けると、ババは私に問いを発した時と同じようにずっと目の前に静止して立っていて、私の返答を待っていました。
どうしてその時、ババに、私はどうすべきか教えてくださいとか、あなたが決めてくださいとか言わなかったのかなあと後になって思うこともありましたが、その時そういう発想はわきませんでした。
ですから、サイババならこの状況を理解するはずだと思って呼び出したものの、情況に対する説明が与えられたあとは自分で考えていました。
このまま肉体を離れるのが正しい選択なんだろうなと思っていたにもかかわらず、なぜそうしなかったかという理由についてはひとつに、では、今終わりにして肉体を離れたら、次に行く世界はどんなのだろう、と思って、実際に見てみたということが挙げられます。
依然として見たいものが何でも瞬時に見ることができる状況にあった私の目の前に、その世界は現れました。
その世界には未来の世界を垣間見たときのような背景は存在しませんでした。
そこでは多くの人々が一応の個人としてのそれぞれの人格は保ちつつ、しかし輪郭においては定かでなく、他の人たちと渾然一体となって常に動き、形を変えながら気持ちよさそうにエネルギー全体としてたゆたっていました。
その世界を見たとき、私は、中に入ってしまえばいいところなんだろうけど、、、と思いましたが、自分がそこに入りたいという気持ちにはなりませんでした。
人格を保ったまま他の人々と輪郭が溶け合うということが生理的にいやでした。
その時肉体を離れなかったまた別の理由としては、そのときの自分は座ったままでどこへでも同時に行けたり、思ったことを鮮明に映像として見ることができたりと、それまでの日常の感覚とはあまりにかけ離れていたので、
わたしはもしや頭がおかしくなりかけていて、幻覚を見ているのではないだろうか?
という可能性を考えないわけにいかなかったことがあります。
その状態になる前には高熱と断水状態があったので、脳の機能に支障をきたしたのでは?と思いました。
ヨガとかの本に書いてあるような霊的な知識は当時の私にはまるでなかったので、私の体感は、これらのことはすべて真実だとはっきり告げていましたが、
自分はもしかして気が狂ったのかな?
と単純にそのような可能性も普通に考えました。
だから、ババが来て、「今、終わりにしてもいいけど、どうする?」と問いかけられたときに、
もしわたしが「はい、今、終わりにします」と答えたら、
そのとたんに今はまだ外界を認識できる感覚器官もその後はすべて閉じられ、
私は完全に気が狂い、外界との接触を失った状態で内にこもり、その状態でその後の人生を生き続けることもありえるのではないか、という発想が浮かびました。
もしそういう形での「終わり」だったら困るな、と思いました。
そしてそれは、案外的外れな考えではなかったのではないかと思います。
あとで本で読んで知ったことで、完全に神に没頭すると、外界への意識を完全に失い、そのままだと21日以内に肉体も死を迎えるという場合があるそうですので。
また、肉体を離れると決めて、つまりはもし私が肉体的に今死ぬと、周囲の人たちは絶対に悲しむだろうし、家族の人たちもあまりのショックで家族がむちゃくちゃになるだろう、と思いました。
私が今ここで肉体を離れることが霊的にはどんなに吉兆なことであったとしても、私の周囲の人たちに衝撃と悲しみを与えることは間違いないし、そういうことはしたくないと思いました。
そのことを思ったとき、そのときの私は何でも実現することができるのだから、「終わり方」も必要とあらば選べることに思い当たりました。
いくつかの方法が浮かんできました。
そのときの乗っている飛行機が日本についてみると私は死んでいた、とか、なぜか飛行機事故がおこり、飛行機が海に落ちて大騒動になる中、私だけが死亡。とか。
また、そもそもの始めから私はいなかったことにして、日本に着いてもみんな何が起こったか、誰が消えたかも気づかないまま元の日常に戻る、とか。(でも、自分がいなかったことにするこの案はなにか寂しいと思いました。)
だから、必要とあればそういう方法を取ることもできるし、私が肉体を去った後のほかの人々の反応を気にする必要もないし、そもそも世界そのものが虚構なんだから心配ない、とも思いました。
実際そのときの私は、自分自身のみが存在すると圧倒的に思い知らされ、意思するだけですぐにそのようになる、世界の脆弱な可塑性を痛いほど感じていました。
(最初のものめずらしさのあとは、そういうのは面白いものではなかったです)
もうひとつの宇宙を創造してしまった聖者の話があったかと思いますが、そのときの私はそういうことができたかもしれません。何を思おうと、それがただちにそうなる確信と実感がありました。
(しかしそこはうまくしたもので、そのときの私は何もやりたいことがありませんでした。)
そのように、世界はそもそも虚構に過ぎないので、世界の反応を気にする必要はない、という認識も私にありましたが、
それでもなお、何らかの形で周囲の人々が悲しむ可能性がある私の肉体的な死は、自分にとって好ましいとは思えませんでした。
私は単に狂っていて、さまざまな妄想の中にいるだけかもしれませんでしたし、
たとえ1パーセントでもそういう可能性を感じるなら、私は思い切れませんでした。
それに、霊性修行ツアーで、なにか事故のように私が突然死んでしまって、ツアーの関係者やほかの参加者がいやな思いを味わうかもしれないと考えるのも楽しくありませんでした。
それともうひとつ、大学寮の押入れの中にいろいろ詰め込んで旅行に出てきたので、
「私がもし旅行中に死んだら、あの雑然とした押入れを誰かが整理しなくてはならない。それはちょっと恥ずかしい。。。」
と、思いました。
案外この最後の理由が決定的だったと思います。
そういうわけで私は、いまだかつてなかった濃厚な思考の時間の後に、どっちにしようか本当にかなり迷ったのですが、
「(私を)元の世界に戻してください」
と、ババに告げました。
そうして私の意識はいつの間にか遠のき、充実した闇の中へいつしかすべてが溶け込み、溶け込んだことにすら気づきませんでした。
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