消えない

 頭をあげると、雪が降っていた。マリカは自分の手のひらに息を吹きかけ、喫茶店に入る。すると編集者の谷曽が、硬い表情で待っていた。
「ごめんなさい。お待たせしてしまって」
「いえ、僕も来たところですよ」
 谷曽は小さく笑った。だが、その笑みにも強ばりが消えない。それもそうだろう。谷曽は、マリカに離婚届を突きつけてきた夫。香坂弥一郎の従兄弟にあたるからだ。マリカと弥一郎が、何故破局を迎えたのかは、親族の間では有名になっているからだ。谷曽の胃も痛まないわけではないだろう。
「で、どうでしょう。依頼した表紙の具合は」
 マリカは鞄から、作成したイラストを取り出す。
「出来てます。先日言われた色の調整もすんでます」
 深い青色の魚が、くすんだ赤の椿に、その顔を寄せているイラストに、谷曽は感嘆した。恐らくお世辞ではない。谷曽は編集者のわりに、お世辞が下手だ。
 店員が注文したコーヒーを持ってきた。砂糖だけを入れてゆっくりとかき混ぜる。コクの深いコーヒーだ。コーヒー独特の尖った感覚は、少しの砂糖では打ち消せない。それがよかった。今日は少し眠れなかった。
 仕事の話をしていくと、自然と話を脱線していった。表面上は笑いあっていたが、やがて、限界がきた。谷曽が。
「弥一郎の件は申し訳ありませんでした」
 マリカは小さく笑った。
「一体、何のことでしょう」
「それは……」
 言葉を窮する谷曽。マリカはその様子を見て、小さく吹き出した。
「あぁ、ごめんなさい。困らせてしまって……そうね、とうとう、離婚になってしまいました」
「この件はマリカさんは悪くはありません。弥一郎の不徳のなすところです」
 マリカは笑い続けていたのが、苦しくなって、深く息をついた。
「浮気し続けて、そちらが良いから、私はいらない……非常にわかりやすいですわ。それが、あの人だったんですね
、ひどいですねぇ。五年もだまされてしまいましたわ」
 詰るような言葉ではあったが、言葉の調子は常に明るく、詰っているようには一見しては聞こえないだろう。谷曽はその言葉に見る見る顔色を青ざめていく。
「弥一郎は、あなたに謝罪は……?」
「お断り、しました。謝罪されたら、私、馬鹿みたいじゃないですか。もうそんなんで、報われるわけではありませんし……私に子供を作らなくて、良かったです。子供がいたら、ほんとに、ねぇ?」
 マリカの調子は変わらず明るかった。谷曽は唇を噛む。その顔にはありありと暗いモノがつきまとっている。
 マリカはコーヒーを一口飲んだ。
「そんなに、あなたが苦しまなくてもいいんですよ。谷曽さん」
「そうですね……本来はあなたがた夫婦のお話です。ただ僕は、あなたに弥一郎を紹介した身……分かっているだろ。マリカ」
「あ、口調が崩れた」
「こっちの方が楽だ」
「私も。他人行儀な口調は親族の集まりだけで十分よ」
 谷曽康太。マリカの夫の香坂弥一郎の従兄弟という身であり、マリカの大学時代の友人だった。元々イラストを描くのが好きなマリカが本の表紙のデザインを手がけるようになったのは、編集者になった谷曽のススメもあったからだ。
「マリカ、これからどうするんだ?」
「一人暮らしをしようかなって思ってる」
「生活費は?」
「実はデザインの仕事でいただいたお金、ほとんど使ってなくてね。数ヶ月はゆうゆう自適に暮らして、仕事を探そうかなって感じ」
 マリカは口角をあげる。
「マンションの部屋は、勝手にくれたしね。あの人」
 それを見て谷曽は息をつく。
「マリカは元気だな。俺は胃が痛いって言うのに」
「ご愁傷様です」
「弥一郎の件はしっかりとシメとくよ。……友人としてな」
「ありがと、ねぇ」
 マリカは谷曽を見た。
「私ね。デートがしたいの」
「え?」
「それで、結婚指輪を捨てに行きたいの」
「えぇ?」
「後、美術展! 行きたいところがあったの」
「どうした、急に」
 目を白黒させている谷曽に、マリカは目を大きくした。
「あのね、結婚している時に我慢していたことを、やりたいのよ。私、もう自由……なんでしょ」
 そう、今のマリカは結婚にも何にも縛られていない自由な身だ。だが自由という言葉を出した途端、その言葉自体が持つ奔放さに、頭がくらくらした。
「そうだな……自由だよ」
「あはは、自由ってすごいね」
「すごい?」
「自分の身が軽すぎて、びっくりする……」
「マリカ……」
「ふふ、なんてね」
 マリカは、無邪気に笑ってやり過ごしていると、谷曽はスマホを取り出して、何かを確認し始めた。
「来月は、マリカ、あいてるか?」
「大丈夫だけど」
「じゃ、手伝うよ、マリカのやりたいこと」
「え……」
 何でそんなに落胆したのか。分からない。
希望が叶おうとしているのに、それを嬉しがっていない自分がいる。そう、それは「夢」を見ているだけで良かったのに。安寧が約束された鳥かごにいるカナリアが、木の上で歌を歌うのを夢見るような……それが無理だと分かっているのに。
「何でそんなにぎょっとしてるんだよ。僕ではダメか……」
「そ、そんなこと、ないよ」
「そりゃ、良かった」
「でも何で……」
「……マリカがやりたがってるならって思っただけだよ」
 親切ととればいいのか、馬鹿と言えばいいのか、マリカは分からなかった。少し頭が混乱してしまったが、気を取り直す。
「なら、お願いしようかな」
 谷曽の次の仕事が近づいてきたので、店を出る。雪のせいであたりは人気がなかった。
 マリカと一緒に駅に向かっている谷曽はこう言った。
「何で、デートがしたいんだ」
「さぁ……普通ならしばらくはいいかなぁと思うんだけど。でもデートって久しくやっていないなと思うのよね」 「そうだろうな」
「してみたくなる。何となく、触れて欲しい」
「何となく?」
「そう、何となくなの」
 もう夫とは一年以上は体の関わりはない。浮気した当初は何かを思ったが、抱くこともあったが、興味関心があちらの方へすっかりうつると、マリカを抱くことはなかった。抱くどころか、触れることもなかった。
「仕事の後輩ちゃんの、恋愛話を聞くと、あぁいいな……と思っちゃうのよ。後輩の子ね、チュウしたいって言ったら相手がしてくれた話を、顔を真っ赤にして言うの。可愛いなぁって思っちゃうのよ」
「……」
「私、もうそんな時期が遠いわ。寂しいなぁと思っちゃって……」
「マリカ」
 谷曽の足取りは止まってる。どうして止まったのか、マリカはすでに悟ってる。そうだ、彼はこうなる結末なら自分は何か出来たのではないか。諦めるべきではなかったと、思ってる。
「康太……どうしたの?」
 腕を引っ張られ、谷曽の胸元に抱き寄せられる。マリカは強く目をつむった。
「何でもしてやるよ……マリカ」 
 密やかな声。マリカはゆっくりと目を開ける。
「なら……キスして」
「うん」
「抱いても良いよ」
「いいのかよ。僕たち……」
「友人がそういうことをしてるだけ、でしょ」
「……あぁ」
 マリカは苦笑した。もうやめようと。ただ家で貞淑に夫を待って、いつか報われると信じた、馬鹿な自分を。
 ねぇ、もう、そうだ、動物のように、気持ちよければいいじゃない。難しいことなんて、どうでもいいじゃない。
 なら私は何故、彼の恋を、行為を、友人というカテゴライズで片づけてしまうのだろうか?

「ん、んん……んぁ」
 夜中に起きてしまった。体がずっしりと重い。あの日から一週間が経った。久しぶりにことをなしてしまうと、体力を使った。家を帰ってから一寝入りして、食事をすると、また眠ってしまって、変な時刻に起きてしまった。
 部屋にはベットと最低限のものしかない。夫のモノは、引っ越し業者があっというまに持って行き、ずいぶんとものが減ってしまった。そっけない部屋になってしまったものだ。ここまでものがないと、がらんどうと言ってもいいだろう。マリカはベットの上で体育座りをした。
「なんだか、寒いね……」
 
 次の月の日曜日。
 マリカと谷曽のデートの日が来た。着替えてみて、蝶のコサージュを胸にとりつけているうちに、その格好に少し恥ずかしくなった。結婚する前に来ていたお気に入りのワンピースを着たのだが、夫の好みの色だったからだ。慌ててワンピースを脱ぎ、夫があまり好まなかった寒色系に着替える。夫の姿は久しく見ていないのに、夫の名残が自分に残り続けていることに、マリカは唇を噛んだ。
「あ、早く行かないと!」
 マリカはばたばたと家を飛び出していく。着替えた夫好みの色の洋服は、ベットの上になげだしたままで。

 今日のデートは、谷曽と食事をして、マリカが行きたがっていた美術展に行き、そして指輪を捨てることだった。

「離婚式という奴では、ハンマーで指輪をつぶすというやり方らしいじゃない」
「そうらしいな。映像で見たことはあるけど、結構豪快だぞ、あれ」
「そうなのね……でも、まぁ。あそこまでしなくていいでしょ。公園の片隅でも埋めてこようかなぁと思ってる」
「すごい雑だな」
「雑でいいのよ、こんなこと。仰々しい方がどうかしてると思うわ」
「……そうだな」
 谷曽はそっと、自分の手に触れてきた。マリカは谷曽の動きを拒否しない。やがて指は絡み合い、熱が通い合った。今日も歩いている道は人気が少ない。軽く、頬にでもキスをしてやろうかと思った。熱を味わおうかと思った。そんな積極的な性格ではないけど、マリカは挑戦しようとした。すると谷曽がこっちを見てきて。
「マリカ」と言った。
 そしてまた別方向を見てしまった。マリカは動揺する。その視線に。
「無理をするな」と言われたような気がしたのだ。
 そんなことはない。無理なんてしていない。谷曽は良い人だ。良い友人だ。自分の気持ちを気にかけてくれて、マリカに献身を求めないし、献身をしたとしても、それをむさぼり食うことはないだろう。その優しさが、なんでどうして痛むのか。傷口に塩を塗りたくられるような感じがしてしまうのは何故なのか。マリカは何かを言わないといけないと思った。でも何を言えば正解なのか、まるで分からなかった。
 マリカはつないだ指に力を込めた。この熱のつながりが消えて欲しくなかった。ずるいと、思った。

 食事をして、紅茶を飲んだ。すると谷曽が少し珍しいモノを見るような目でマリカを見た。
「紅茶、飲むんだな」
「え?」
「紅茶、珍しいなって、思って。ここ数年、会う度にコーヒーを飲んでたからな」
「そうね……仕事の時もそうね、コーヒーばかりだった」
「大学時代はどうだっけ? 忘れたなぁ。もう八年前になるのか。出会ってから」
「そうね……」
 心臓の音が何故か一際高くはねた。
マリカは紅茶派だった。それからコーヒー党になった。仕事で集中することは多いために飲むようになったということもあったし、なによりその……。
 夫の弥一郎が大のコーヒー党だった。朝食にはかならずコーヒーを飲んでいたから、マリカも自然に飲むようになっていたのだ。でも夫はもう隣にいないから、以前のマリカの習慣に戻っているのだろう。
 マリカは今朝、夫が自分の中に強く名残を残していることが辛かった。けれど時は過ぎていく。自分の中にあった名残は少しずつ削れていく。その事実が、マリカを異様に揺さぶった。嬉しいことなのに、どうして嬉しくないの。
「マリカ。この後の美術展だけど……どうまわっていくんだ。僕はあまりその、造詣がなくてな……そ」 
 そこで谷曽の言葉が切れた。マリカがうつむき、目が瞬かせている。うっすらと涙目になっていた。
「マリカ?」
「康太、指輪、早く捨てに行こう。もう今すぐ、捨てていこう」
 切迫したマリカの様子に、谷曽は息を飲んだ。

 食事した場所の近くには大きな市民公園があった。
そこにある雑木林に躊躇なく足を入れる、冬の寒気で葉を落とし、灰色に近い白の木の幹は、ひどく傍観者のようだった。マリカは傍観者の間を通り抜けて、どこか適切な場所はないかと探す。指輪を握りしめて、早くこれを埋葬したかった。全てを置き去らなければと思った。
 マリカはずっと、前向きにいこうと思っていた。弥一郎の件はどうにもできなかった、ならば、弥一郎のことなど、全て振り切ってしまおう、忘れてしまおうと思ったのだ。だからこうした。谷曽の腕に抱かれた。家を守ってくれる大人しい妻であってほしかった弥一郎の理想を裏切った。別れた直後に、谷曽とそんなことをしていたら、少しは傷つくのではないかと思った。谷曽の好意を知りながら、それを利用する自分に、絶望を覚えながら。
「マリカ、待て。そんなに急いでどうしたんだ」
「早く、捨てなきゃ。埋めなきゃ、いけないの、この呪いを」
「呪い?」
 谷曽の手がマリカの腕を捕らえた。マリカは髪の毛を大きく振り乱して、弱々しく頷く。
「そう、よ。私、弥一郎のことを忘れなきゃいけないのよ。前を、前を向くために!」
「マリカ、ちょっと、落ち着け」
「だって、そうじゃなきゃダメなの。そうじゃなきゃ、いけないのに。私の中に、弥一郎が深く張り付いていて、これじゃ前に進めないと思ったの」
 マリカはいやいやするように頭を横に振った。
「あなたにキスされても、抱かれても、弥一郎が頭をよぎる。こんなひどいことって、ないでしょ……あなたの好意を利用する魔女になりたいのに。ただただ馬鹿みたいに気持ちよくなればいいのに。現実の私は、怯えてるだけなの。弥一郎への想いが消えない自分に。消えて欲しくない自分に」
「マリカ……」
 マリカの眦から涙がこぼれた。
「全然納得してないの。浮気されて、どうしてと思う自分がいる。浮気した相手とどうしてるのだろうと嫉妬してる! 会いに来てくれないあの人に胸が締め付けられる。何より、思い出が責めるの、私を。哀しそうに見ているの」
 どうして楽しい思い出が自分を責めるのか分からない。ただ置き去りにされた子供のように見ている思い出が、身勝手にも、哀れだった。贖罪しないといけないと思わせた。それは真実で、でも当事者になりたくないのも真実で、マリカは思考の迷路に閉じこめられたのだ。
「私、馬鹿なの。もう、どうすればいいのか分からないのよ……前を向かなきゃいけないのに、もうどうすればいいのか分からない!」
 谷曽の手のひらが自分の顎をそっと包んだ。谷曽はそのまま、何かに祈るように目をつむり、マリカの唇に己を重ねた。
「ん、んぅ……」
 呼吸の仕方が一瞬分からなくなるほどに、鮮烈な口づけだった。マリカは涙に濡れた頬を拭くことなく、呆然と谷曽を見た。谷曽は深く息を吸って、言った。
「僕は君のそばにいるよ」
「え?」
「僕は君のそばにいる。君の中に誰が居ても、僕はそばにいる」 
 谷曽の声はしっかりしていた。
「どうして……私は、あなたに」
「知っていたから……君が、無理をしていたことは」
 谷曽は哀しそうに目を細めた。
「それなら、尚更……」
 谷曽はマリカの額に自分の額をくっつけた。
「君が馬鹿なら、僕だって馬鹿だよ。君のそばにね、どんな形でもいたかったんだから」
 それは谷曽の不器用な想いの形だとマリカが分かった途端、眦から再び熱いモノがこみあげた。マリカは谷曽にすがりつく。弥一郎の影が瞼の裏にちらついたが、それでも谷曽のことをマリカは手放せなかった。
 いつか、この人で心を満たされたのなら、私は心からの想いで、この人の隣にいよう。

 マリカは指輪を捨てれない自分の存在を認めながら、そう誓った。

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