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人を憂う

坂道を登っていると、女性が後ろから声をかけてきた。
「上まで押しましょうか?」
善意で言ってくれてるのが分かる。
「え、いや、大丈夫です」
そう断ったけど、構わず押してくれた。
「あ、えと、すみません」
「全然!」

「ありがとうございます」
上まで登りきったところで相手にお礼を言って、また自分の手で漕ぎ始める。
いくら待っても、僕を押してくれたその人は、僕を追い抜かしてくれない。
不思議に思って振り返ってみた。
遠くに、その人の背中を見つけた。
それはつまり、僕を上まで押してやる為だけに、自分とは反対方向の道に付き合ってくれたということだ。
申し訳なさがつのる。

それに。

その優しさが、邪魔だった。

僕は、筋トレも兼ねてその坂道をわざわざ登っていたのだから。その時の僕にとって坂道を手伝ってやることは、筋トレの妨害でしかなく、邪魔以外の何ものでもなかった。

そうか。
きっと僕もそうだったんだろう。

自分が良かれと思ってやったことが、
押しつけだったこと。

坂道を登るのに苦労してるんだから、手助けしてあげた方がいい、というのも、
結局は、こちらの決めつけだ。
親切がいつでも好意的に受け取られるとは限らない。

空気を読めない善意で手伝った気になって、
今日も良いことをした、などと自己満足に浸り、
僕は相手の事情を知ろうともしないまま、
とんだ勘違い野郎だ。

相手の気持ちを慮るって難しい。
優しさは、相手の欲しいところに届いてこその
優しさなのだと知った。
優しい、という文字は、人を憂う、と書く。
人を憂う
そこに、可哀想だ、という、自身よりも下の者に向けられた視線のようなものを、以前から感じていた。

優しくするって、なんなんだ。

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