関西風うどん

その通りはズダ猫通りとよばれていた。緑が小学生のころ、ズダ袋みたいな猫がその細い道の真ん中にいつも座っていた。顔の青い白い近所の大学生に猫いらずを飲まされてその猫は死んでしまった。ある冬のことだった。緑は冬になると、店の前のその通りを眺めながら、その猫が死んでも別に悲しくならなかったことをいつも思い出している。
 猫が死んでから店の前の通りにはしばしば汚らしい犬や人間がかわるがわるあらわれ始めた。みんなぶっちょう面で、あの猫が生まれ変わったようだった。店をついでから白髪を染めるのが難儀になるまで、十年ごとくらいにその汚らしいものたちはあらわれたが、最近はこの通りもすっかりきれいになっていた。ホームレス、野良犬、朝帰りに泣き崩れる女、母親が不倫している間行き場のない少年、そんなものたちが居つけるような通りでも、街でもなくなっていた。通りではもうたばこも吸えない。うどんとそばを茹でつづけてきた五十年の人生に、アクセントを加えてきた緑の善意は、対象があらわれないから行き場を失っている。十年前、近所で浮気相手と一発かましている母を待つ間、この通りでぶらぶらしていた少年を最後に、やさしさを持て余していた。夫もなく、もちろん子もなく、立ち食いうどん屋でずっとうどんとそばを茹で続ける人生に不満があるわけではなかった。日曜日にはパチンコを打って、たまに客とおしゃべりをして、誰かに少しだけ必要とされればそれで満足だった。どこにでもいる地方都市の孤独な老人だった。そして、彼女はうどん屋だった。 「ウチは困ったもんに、うどんを食わしてきたんや。うどん屋かて、人の助けになる。ウチがおらな飢えと寒さで死んでた人もいてんねんで。汁も麺も業務用やけどな」ずーっとうどんばっか茹でて、おもろいんか。そんなことをきかれると彼女はあっけらかんとそう答える。自分はうどん屋になるべくして生まれたのだと思っていた。君の可能性は、無限大だ、などと叫ばれるようになる前に生まれたからではない。父のうどんをゆでる姿。そのひきしまった二の腕にある大きな火傷のあと。割烹着を着て頭に手ぬぐいを器用に巻き、店を右往左往する母のそのせわしなさ。緑は子供のころからそういうものが好きでたまらなかった。父は八十まで元気にうどんを茹で続け、母は四十の時、まだ若く美しいまま死んだ。父のように生き母のように死にたかった。
最近では冬になると午後三時すら骨身に染みるようになった。医者に滅多にかからないくらい頑丈だったが、風が店内に吹き込むたびに膝の関節が痛んだ。ウチも、店じまいやな、と客に聞こえないくらいの声でつぶやくようになった。たまらなく寂しくなる日もあった。人生に後悔はなかったが、寂しさは少しずつ体の底に沈殿していた。
その日も、昼時の客の流れが絶えて、午後の真空地帯にさしかかったころ、店の裏で煙草をふかしながら、少しだけやめる決心がついていた。うどん屋を閉めるのは人生を降りることのようにも思われたが、そんなことよりも暖かいこたつの中が恋しかった。このあたりもいよいよ区画整理が行われることになり、役所の若い職員がやんわりと立ち退きを進めてきたこともあった。その時は追い返したが、いくらかもらえて快適な老人ホームに入れるという甘い言葉が頭をよぎっていた。だが、老人ホームに入ったところで、自分はうまくやっていけるだろうか? と緑は思う。店をついでから自分の才覚だけで商売をしてきたのだ。身を粉にして一日中、毎日働いてきた、そんな自分が、勤め人や、主婦や、そんな人間たちと、毎日顔を合わせて一体何を話すことがあるというのだろう。一人で生きてきた誇りのようなものが垢のように堆積していた。決して裕福とは言えなかったが、誰にも迷惑をかけず、胸を張って生きてきたという自負があった。煙草を消して店の中に戻り、揚げ物鍋のそばの椅子に腰をかけた。まあ、でも、ホームに入ってみるのも、悪くないんやないか。通りを抜けて角を曲がり、けやきの並ぶ通りの先にある小奇麗なホームを好意的に想像してみる。七十年の垢にまみれたこの店内とそれとはあまり大きな隔たりだった。
通りに西日が差し込むと、キラキラと落ちていくものがあった。雪だった。開けっ放しの入り口が、四角く外の景色を切り取っていた。一年前に店を閉めた向かいの眼鏡屋のシャッターが降りたままでさび付いている。いつも金縁の眼鏡をかけた生真面目な男のその店は、大型チェーンの進出で二十年前から風前の灯だった。自分の仕事をただコツコツやるだけでは、生きていけないんだ。店を閉めるとき悲しそうに男はもらした。真面目にやるだけでは――がめつくならなければ――もう生きていけないのだと。がめつい資本ががめつくないものたちを食いつぶしていくのは当たり前だった。生きることはもう欲深いということに変わっているんだ。忠告でもなんでもなく、ただ男はそう呟いて、うどんをすすって、入り口から出て行った。ちょうど同じ季節のことだった。
一つ一つ顔の違う結晶は物質としてさびよりも美しく、何をほめるでもなくたたえるでもなく、すまして降り続けている。カウンターに置かれた電子時計が小さく四時を鳴らした。ただ美しく落ちてとりとめもなく消えていく雪のように、生きるということもとりとめない、と緑は思った。もう、楽に、生きていこう。緑は決心を固めて、コンロ台に肘をついて目を閉じた。
決心の余韻にぼーっとひたっていると、入り口に人の気配がした。けだるく、よっぽど、眠っているフリをしようかと思ったが気力を振り絞って立ち上がった。二十代くらいの男が、天内をキョロキョロと見回している。
「堪忍ね。何にしはる」
 男は三つだけある背の高い椅子にこしかけ、「天ぷらうどんを、ください」と無愛想に思われるくらい生真面目な声で言った。
 声の調子から、男がこの辺のものではないと緑は思った。小さくうなずいてうどん玉を茹で器に入れ、茹で上がると丼に入れて薄い出汁を注いだ。
 男はむさぼるようにうどんを食べた。よっぽど腹が空いているらしかった。天ぷらをかじる音が歯切れよく、どこか幼さなかった。また椅子に腰をかけてぼーっとテレビをながめはじめる。食べ終わっても男は帰る気配がなく、ほかに客もいなかったの別にでかまわなかった。
「あの……」と男が口を開いた。
 緑は男を見た。男はたどたどしく言った。
「僕のこと、覚えてませんか?」
緑は青年を見つめた。こんな若い知った顔はなかった。
「かんにんね、ちょっと……」
緑が目を伏せると男は肩をすこし落として踵を返した。だが、入り口まで歩いて、振り返って、「あの、そいえば僕、坊ちゃんです。そいえば、そんな名前で……」
 緑は男の顔をもう一度じっくりと見た。どこかに、十年前の少年の、面影があった。
「よううちでうどん食べさした、あの坊ちゃん?」
「そうです」と男は初めて笑った。
 上がった右の口角にくできたくぼみで、やっとあの少年だったと緑は確信した。坊ちゃん狩り刈りだったから、坊ちゃん。この通りを寂しげにうろうろしていた彼に、そう呼びかけたのだった。

「そこの坊ちゃん。お父さんとお母さんはどないしたん」
「お母ちゃん、竜二さんところに行ってて、僕は待ってんねん」
「そらお父ちゃん?」
「いんや。父ちゃんは仕事」
すぐに合点がいった。
「……。寒いんやから、お家でまってたほうがええんとちゃうか」
「家にいてもなんもすることないから、僕はここで待ってんのや」少年に蹴っ飛ばされた小石が、不憫な音をたてた。緑は少年を店にいれ、あたたかい天ぷらうどんを食べさせた。背の高い椅子にちょこんと腰かけて少年はうまそうにうどんを食べた。それからたびたび彼を店に招き入れて、うどんを食べさせるようになった。

「そういえば、天ぷらうどん、好きやったな」そう言うとまた嬉しそうに坊ちゃんは笑った。緑の顔も思わずほころんだ。
「なんぞ、自分は今までどこにいてたんや」
「東京に引っ越したんです」
「さよならも言わんと、さびしかったで」
 坊ちゃんは心底申し訳なさそうに頭をさげた。頭をあげると、財布から二万円を抜き取って、カウンターに置いた。
「何や、コレ」と緑が驚いて言った。
「あの時のうどん代です。ずっと気になっていて」坊ちゃんは恐る恐る言った。緑はしばらくお札を見つめると、顔をゆがめた。
「いらんは、こんなもん」キツイ口調でそう言い放った。まるで、自分がもうお役御免と言われているように感じた。 「なんぞ自分はすっきりするかもしらんが、うちはそんなつもりで食わしたんやないで」
 坊ちゃんは万札をあわてて閉まった。緑は、帰れ、と言いかけて、ためらった。寂しかった。何か暖かったものが去ってしまうことに後ろ髪ひかれる思いがあった。緑は会話をついだ。
「今日はなんや。東京からわざわざ金払いにきたんか」
「それもあるんですけど」坊ちゃんは少しいいよどんだ。 「あいさつ、しようかなと思って」
「あいさつ?」
「僕、こっちの大学に受かって、春からこの近くに越してくるんです。さっきまで、物件見てたんです。だから、もしまだこのお店があったら、これからも来たいなと思って……」
「なんや、越してくんか」緑の顔が少し緩んだ。
「はい」坊ちゃんは緑の顔色をうかがう。
「大学受かったなんて、めだたいやんか」身内から歌手でも出たかのように緑は嬉しくなった。もう万札のことは忘れていた。坊ちゃんがまた店に来ると思うと体に力がみなぎってくるような気がした。 「なんぞ、利口なこやったもんな、坊ちゃんは」
坊ちゃんは照れ臭そうに頭を下げた。 「すぐ近くだから、また来てもいいですか」
「ウチもほとんど年金暮らしなんやから、もう自腹で食うてや」緑は久しぶりに冗談を飛ばした。 「まあ、なんぞビールでも飲ましたるからまた来ぃや」
「なんぞ、また来ます」坊ちゃんはうれしそうに笑った。
 坊ちゃんの帰り際、まあ、でもようこんなところにまた来たもんやなぁ、としみじみ緑はぼやいた。すると坊ちゃんは、ニヤリと笑って「やっぱり、うどんは、出汁が薄ないとアカンわ」と言ってサムズアップした。
 緑も親指を立てて、ニヤリと笑った。

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