大坊珈琲店のマニュアル

 行ったこともないのに大坊珈琲店という喫茶店に憧れている。大坊珈琲店は二〇一三年に閉店したからもう行くことが叶わない。大坊さんは今まで本を何冊か書かれていて、一番有名なのがこの『大坊珈琲店のマニュアル』だと思う。美学とも哲学ともちょっと違う、大坊さんの珈琲への詩情みたいなものがつらつらと書いてある。それを日々読み返しながら、もう行くことのできない喫茶店に思いをはせている。店内は暗く、焼杉のような色で統一されていたらしい。お前はここにいてもいいぞ、と言われている気がして、そんな店内は好きだ。珈琲豆二十五グラムで、百CCくらい淹れたそうだから珈琲自体もとても暗い色をしていたことだろう。大坊珈琲店は表参道にあって、客が入ってくるたびにはなやぎも入ってきた。

 わたしたちは生活というものにどんどんと陰翳の余地を残さなくなってしまったから、もう珈琲くらいしか生活に暗色がない。わたしたちはみんな母の子宮の暗がりからでてきたのだから、日々がこんなにも光っぽいものでしか満ち溢れていないのは不当であるとさえ思う。だからなんとなく一年に一回くらい鎌倉の暗い寺とかに行って溜飲を下げて帰ってくるのだろうか。だいたいは、生活の中で珈琲だけが暗い。そして苦い。珈琲を口にふくむとわたしは本当のわたしであったころを思い出すというか、わたしがわたしでなかったころを思い出すというか。仕事中や文章を書きながら、珈琲をふくみ、どうでもいい物思いに少し恍惚としてふける。

 二〇二〇年の三月ごろコーヒーを家で淹れ始め、メリタ、ハリオ、コーノ式を経てネルドリップまで来てしまった。思えば遠くへ来たものなのだろうか。コクの深い味わいはもちろんだが、淹れるときの所作に強く惹かれている。所作、というよりは時間の流れか。ネルドリップは、自分で淹れている時も(自分だとたまにだけど)、人が淹れるのを見ている時も、時間の流れが遅い。時というものに狭間があるとするなら、その中をコーヒー液は流れて受け皿に落ちる、そんな気がする。豆の粒子の間は時空でも歪んでいるのかもしれない。今日自分が淹れるのを動画に撮ってみたが、まだ日常のせわしなさを離れていない。ネルドリップをしている間は寿命が縮まない、そういうところまで行ってみたいと思うのはごうつく過ぎるか。

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