嫌悪感がある人物に対して 斜に構えて分かったように語ることに正しいことはありえない それが例え、署名されたプロの文章であっても

もう少し頻繁に書き込みをしようと思っていたけれど、結局、数か月が開いてしまいました。わたしのやること、こんなんばっかです。

さて、タイトルそのままなんですが、嫌悪感がある人物や特定の集団に対して、現実の会話はもちろん、Twitterの発信や、署名された記事(つまり仕事として書いたと思われる文章)で語られることについてです。

ここ数日では、ロシアによるウクライナへの侵攻の話で、ウクライナに降伏をすすめる人たちを批判するツイートで目にしました。わたしもそういう批判には同調しますが、それとは別に注意したいことです。他にも、よくあるのは、男女間での批判や誹謗中傷、もっともっと日常的に大人も子供も嫌いな人を語る時には普通にすることです。

「どうせ、あいつらは・・・なんだろう」とか、「どうせ、お前は・・・って考えているんだろう」なんて言う場合です。「どうせ」が含まれていなくても、文章読んでいるとそれが感じられることは多いですよね。

でも、この書き込みを読んでいる皆さん、冷静に考えてみてください。

人を理解するって、そんなに簡単ですか?

世の中、大好きで人生を共にできる、一時は四六時中考えた大好きな人のことも、自分が育てた子供のことも、充分に理解できていないことはいたって普通のことです。それなのに・・・

嫌悪感まで抱いている相手のことを分かったように語ることって無理がありませんか?


子供の頃に思いましたよ。自分のことを指摘されたときに、「そんなことないはずだけど、俺ってそうなのかな?」って。
言ってきた相手が大人の場合もあります。(大人の場合は、自分が嫌われていた訳でなく、説教の時が多かったと思いますが。)
まあ、言われる時と言うのは、自分に何かしらの非がある時だから、「あれ?そうかな?」と思っても仕方ないので黙っていました。真に受けていましたし、説得力はありましたよ。

でも、大人になっていろんな論評にも見られるようになって違和感が大きくなってきました。署名された責任ある文章であってもです。

「いい年して」と言われかねない年齢になって、「人間っていろいろだ。ホントに千差万別だな。世代間でも違うし、男女や地域差、貧富、兄弟の有無、親の影響とか、脳の特性とか、『多種多様』という言葉でも想定外の複雑さだろ。」と思うようになりました。さらに、尊敬している人間にも限界がある一人の人間であることに気付いたりしていました。そんな時、ハタと気付きました。

名のある人でも、専門外の分野、例えば、家庭人としてとか、指導者としてとか、悪いことをする人、情けないことをする人は珍しくありません。
 例えば、できることと教えるを一つに考える人は多いと思いますが、できることと、教え導くことは別の技術です。人は生まれてばかりなら赤ちゃんからスタートです。同じように、自分の子が生まれたばかりなら親としては赤ちゃんからスタートなのです。

だから、専門家が専門分野を語る中でも、ちょっと専門分野を外れた時、専門分野の中のようでいて伝える・教えるなどの新たな技能が必要な時にミスは起こっていると考えました。発言者の言い分に間違いはないと思う内容でも、その発言者が嫌悪感を持っていそうな人物や特定の集団にたいして斜に構えて語る時、疑った方が間違いないと。

先に述べたように他人って理解するのは大変難しい、嫌悪感を抱くような相手についてはなおさらです。だから皆さん、自分がそういう発言をするとき、他人がそういう発言をするとき、思いやりが感じられないような内容で理解をしたような上から目線をしながら決めつけていたら、ご注意を。





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