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「菩薩」とは?(2018年8月19日)

 前回スタートしました、今年度の「国語教育全国大会」の報告を一回お休みして、今回は説話などの古典によく出てくる「菩薩」について触れてみたいと思います。

 なぜ急に「菩薩」などといって採り上げる気になったかと言うと、先に日本中の話題をさらったスーパーボランティアの男性のニュースをTVで見たからでした。
 あの方の風貌が「菩薩」にしか見えず、ネットを検索したところ、やはり彼のことを「菩薩」と称するツイートや書き込みがいくつも見られました。私一人ではないのだなあと思い、あらためて「菩薩」について確認し、このブログを読む方にも身近に感じて理解してもらおうと思いました。

 さて、修学旅行など奈良・京都や鎌倉といった古都の散策では、多くの人がお寺を訪れて、仏様を拝んだりすると思います。しかし、その〝仏様〟に様々な種類があるというのは、どこかで聞いたこともあるのではないでしょうか。今回は、タイトルにも記した「菩薩」と「如来」との二つに絞って説明したいと思います。

・菩薩(ぼさつ)…さとりを求めて修行する人。もと、成道以前の釈迦牟尼および前世のそれを指して言った。
・如来(にょらい)…仏の尊称。「かくの如く行ける人」、すなわち修行を完成し、悟りを開いた人の意。のちに「かくの如く来れる人」、すなわち真理の世界から衆生(しゅじょう)救済のために迷界に来た人と解し、如来と訳す。
(『広辞苑』より抜粋)

 「釈迦牟尼(しゃかむに)」は「仏」に同じで、ブッダのことです。
 『今昔物語集』の最初の最初にも描かれていますが、「仏」は「真理の世界」から「衆生」(=すべての生きとし生けるもの)を救うために、この世界のその時代のその地域の人の格好になり、「真理の世界」からこの世にやって来ます(真理の世界での「仏」の姿は、超人間性を持つ者として、この世界の人間の一般的な姿から大きくかけ離れています「三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじっしゅごう)」)。
この世にこの世の人として生まれた「仏」は、生身の人間として修行をして悟りを得るのです。悟りを得るまでの姿と状態がすなわち「菩薩」です。また、「仏」は「仏」になる前の生涯があり、一つではないそのいくつもの前世の姿と状態も「菩薩」と言います。
 そして、「仏」が悟った場合にはその姿と状態を「如来」と呼びます。「如来」も「菩薩」も特定の機能を持ち理想化された姿を持っており、「菩薩」の場合は「弥勒、観世音、大勢至、日光、月光、文殊、普賢、地蔵、虚空蔵」、「如来」の場合は「釈迦、薬師、阿弥陀、大日」などです。皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。
 
 さて、話をスーパーボランティアの男性に戻します。インタビューの最中に手にトンボが止まるなんていうのもとても常人とは思われない現象でしたが、とにかく徹底して利他(=自分を犠牲にして他人に利益を与えること。他人の幸福を願うこと。〔「利己」の対義語〕)の精神の方でしたね。寝泊りは自分の車の中でして、食料も自前です。「山口に二歳の子を探しに行く」と大分の自宅の玄関に書置きして出かけ、ご両親に必ず連れて帰るという約束したからと、発見した子どもさんを警察にも渡さずに抱いて山を下りている映像も印象的でした。また、山で鍛えられた身体は「利他」をするために修行を重ねている「菩薩」のそれではないかと思われました。

 大乗仏教では、大乗の実践を行う人、宗教的実践を行う主要な人と見なされた。

 中国、日本では高徳の僧への称号として用いられた。日本では聖武天皇が行基に菩薩の業を賜わったのを初めとする。
(『ブリタニカ国際大百科事典』の「菩薩」の項より抜粋)

※大乗仏教…出家者中心・自利中心であった小乗仏教に対して、利他中心の立場をとった仏教。
※行基…奈良時代の僧。畿内を中心に諸国を巡り、民衆強化や造寺、池堤設置・橋梁架設等の社会事業を行った。

 私は時々思うのです。古典に書かれていることは古典の世界で完結しているわけではなく、現代でもまた真実ではないかということを。現に、私たちは誰が示し合わせたわけでもなく、スーパーボランティアの男性のことを「菩薩」と呼びました。そして、彼の行動力とその根源にある命の大切さや困難な状況にある人たちへの純粋な思いに心を動かされました。
 きっとあなたの周りにも、「菩薩」はいるのではないでしょうか。そして、私たちにだって「菩薩行」は可能なのではないでしょうか。

※菩薩行…菩薩としてなすべき実践。他者に対する慈悲を重視し、最高の悟りに到達しようとする宗教的実践。

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