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『一遍聖絵 』―名場面ハイライト2「一遍の覚悟」―(2013年8月11日)

 本ブログで先に、『徒然草』の第八十五段および第五十九段についてのミニプリントを掲載し、プリントの下半分では、それぞれ国宝『一遍聖絵』のワンシーンを掲載しています。前回は、成道したとはいえ一度は布教に失敗した一遍が、しだいに人々を教化していくようになった経緯を考察してみました。

 さて、『徒然草』―名言ハイライト2 第五十九段―の下の『一遍聖絵』の絵を見て下さい。前回の一遍と異なり、一遍の激しい感情のようなものが伝わってきますか。

 『一遍聖絵』によれば、「吉備津宮の神主の子息」事件の後、一遍は弟子たちとともに京都に出て来ます。この頃から、数々の奇瑞、つまり奇跡が一遍のまわりで起きるようになります。京都を出て善光寺に向かい、信州での布教中にあの有名な「踊り念仏」もほとんど自然発生的に始まります。その後奥州の旅を経て、多くの弟子を率いて一遍は鎌倉入りを企てます(プリントでは左が切れてしまっていてわからないのですが、多くの弟子が一遍の後ろに続いています)。

 日本史の基本的な事実として、鎌倉末期、一遍の活躍した時代の緊迫した状況を皆さんはご存知だと思います。――元寇です。『一遍聖絵』の本文には「弘安五年の春、鎌倉にいりたまふとて」とあります。「文永・弘安の役」は、文永十一(1274)年と弘安四(1281)年のことですので、鎌倉は厳戒体制のはずです。しかも、一遍が「こぶくろざかよりいりたまふに」として鎌倉入りを決意した日は、「今日は大守(=執権北条時宗のことです!)山内へいで給事あり、このみちよりはあしかるべき」と親切な人が教えてくれたにもかかわらず、「思ふやうあり」(「(自分には)考えがある」)と言って、一遍は忠告を無視して進んでいったのです。

 皆さんもご想像の通り、執権の北条時宗が通る道ですから、武士らが警護しているわけです。おそらく、一遍一人であったとしても通さないでしょう…。それを、粗末な格好の僧尼に加え、当時差別を受けていたような人々までが無秩序に、立ち入り禁止の道に入って来たのです。
 弟子たちの中には〝さすがにやばいでしょ…〟と思っていた人もあるかと思うのですが、一遍は脇目も振らず進んでいったのです。武士も一瞬ぎょっとして、あわてて時衆(一遍につき従った人々をこう呼びます)を制し、それでも通ろうとする時衆を小舎人に命じて殴りつけます。

 「聖(ひじり)はいづくにあるぞ」
 「聖(ひじり)」とは、聖人や徳の高い僧に対する尊称です(空也などもそう呼ばれてますね)。ここでは、時衆を率いている一遍のことを指します。
 「ここにあり」と、一遍は武士の前まで進み出ます。

 武士は、〝お前が人をぞろぞろ連れているのは世間の評判のためだろ。だいたい、止めてもこの道に入ってくるというのが間違っている〟といったことを一遍に述べます。

 皆さんは、一遍がどう返答したと思いますか。

 「法師にすべて要なし、只人に念仏をすすむるばかりなり。汝等いつまでかながらへて、かくのごとく仏法を毀謗すべき。罪業にひかれて冥途におもむかん時は、この念仏にこそたすけられたてまつるべきに」

 〝法師には特別な訳など何もない。ただ人に念仏を勧めるだけだ。お前たちはいつまで生きながらえて、このように仏の教えをけなすのか。犯した罪に引かれて冥途に向かう時には、この念仏にこそ助けられるものを…!〟

 武士は答えるかわりに、一遍までも小舎人に殴らせます。
 しかし一遍は、本当に人々を救いたいという慈悲の気持ちによって激しい怒りの中にあるので(絵をもう一度よく見て下さい。一遍の手には念仏札が強く握りしめられています!)、痛みを感じることはまったくない様子だったと『聖絵』は記します。
 そして、〝こんなふうに仏の教えが扱われるのであれば、ここで死んでもかまわない〟とまで言い切ります。

 ――完全に武士の敗北です。いや、一遍はもう世間的な事物とはまるで違う次元にいるというのが正しいのかもしれません。
 〝鎌倉の外ならかまわない〟という許可を得て、その夜は「かまくら中の道俗雲集して」一遍と時衆を供養したとあります(絵の下の方でも通行人が武士と一遍とのやり取りを見ている様子がわかりますね。こうした人々が、鎌倉中に〝すごい聖(ひじり)が現れたぞ!〟と触れ回ったに違いありません)。

 実は、一遍は鎌倉に入る前に、鎌倉で失敗するようなことがあれば「是を最後と思べき」と時衆に宣言していました。――「思ふやうあり」と言って、入ってはいけないと言われた道を進んでいった一遍には、ある確信のようなものがあったのだと私は考えています。自分の布教活動が神仏の加護のもとにある偽りのないものであれば、今日はそれが証明されるに違いないという一遍の強い信念です。なぜ今日かというのは、一遍にしかわからないことであったのでしょうが、いずれにせよ一遍にはわかったのだと思います。

 『一遍聖絵』はこう述べます。「昔達磨の梁をいで、孔子の魯ををはれしも、人の愚にあらず、国のつたなきにあらず、ただ時のいたるといたらざるとなり。」

 一遍も失敗や不遇の時を経て、何らかの大きな力や存在の定めた「時」にとうとう至り、ピークを迎えたと聖戒は考えているのです。真実の教えが広まるのには段階があるのです。弟子ができ、奇瑞が起き、そして、権力に屈することもなく一般の人々にまで教えが広く理解される。――ここでは「達磨」「孔子」のみが例にあげられていますが、『一遍聖絵』には他にも多くの一遍と同じ道をたどった先人たちが登場します。一遍は、ワールドワイドな偉大なる先人たちと同じステップを経ているのです。日本史上の「キワモノ」どころか、世界史にまで普遍性を持つユニークな人物なのです。


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