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『徒然草』―名言ハイライト5 第百五十二段―(2013年9月16日)

 今回のミニプリントの右側の「名言ハイライト5」は、絵が『一遍聖絵』ではありません。なぜか、ヨハネ・パウロ2世です。

 第百五十二段は、「腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様」の西大寺静燃(さいだいじのじやうねん)上人の姿を見て「あな、たふとのけしきや」という西園寺(さいをんじの)内大臣殿に、日野資朝(ひのすけとも)が「年のよりたるに候」と吐き捨て、後日、ひどく老いぼれたむく犬を連れてきて「この気色たふとく見えて候」と言って、西園寺内大臣に差し上げたという逸話です。

 逸話自体の考察は別の機会に譲り(メルマガの方で扱っているので、いずれnoteにも掲載したいと思います)、今日は、ヨハネ・パウロ2世(1920~2005。ローマ教皇在位1978~2005。ポーランド生まれ)の新聞記事との関連性を論じてみようと思います。

 記事は、2005年4月4日(月曜日)の読売新聞の夕刊にかつて掲載されていたものです。竹下節子氏(比較文化史家)の「ヨハネ・パウロ二世を悼む」というものです。

 その年の「復活祭の昼、ヨハネ・パウロ2世は在位初めて恒例の祝辞を述べなかった」。「自室の窓から姿を現した法皇は顔をしかめ、そこにいるだけでも苦しそうで、あまつさえ、マイクの前で声を振り絞ろうとしてうめき、果たせなかった。」

 ヨハネ・パウロ2世は、「テロの後遺症、パーキンソン病などに悩まされて「墓場のようだ」とたとえられても、決して譲位を口にしなかった。震えても、歩けなくなっても、しゃべれなくなっても」その姿を人々にさらしたのだというのです。法皇は気管切開の手術を受けた直後でもあり、「相当な訓練や補助なしには発話が不可能で、マイクを向けても無駄なことははっきりしていた」ともあります。

 そのヨハネ・パウロ2世の「使命感をに生きる姿を目にして、人々は感動せざるを得なかった」という一方で、「信者の中には、「法皇の無力を公にさらして引退を余儀なくさせるための演出だ」という意見まで出た」ということでした。

 人々が老いをどうみたかという対立の図式は、まるで西園寺内大臣殿と日野資朝のことを書いた『徒然草』第百五十二段ではないかと思い、私はこの記事を大事にとっておきました。

 「そもそも、戦争や災害の残虐シーンはメディアやゲームにあふれているが、普通の人が年老いて病を得て衰弱していく様子というのは、現代では実はめったに見られない。」とも、竹内氏は記しています。そうとらえると、法皇が復活祭に姿を現したのは、死を目前にした法皇自らの意志のような気もします。
 ヨハネ・パウロ2世は、「初のスラブ人法皇として50代で彗星のように登場し」(最年少だったそうです)、「ヨーロッパの「東西の壁」を崩すことに貢献し激動の時代を駆けた」と記事にはありますが、命が尽きるその最期の瞬間までキリスト教に身を捧げることが使命であるという自身の運命、つまり自らの使命と生命とが寸分たがわず一致する人生であることを、自らが最もよく悟っていらっしゃったのではないでしょうか。

 「「法皇の無力を公にさらして引退を余儀なくさせるための演出だ」という意見」は理屈が通っていてわかりやすいです。老人と老犬を同列に扱う日野資朝は、クレバーと言えばクレバーです。老いたものは醜いし、役に立たないという視点は、合理性・能率を求めれば圧倒的に正しい結論です。

 しかしながら、世の中とはそういうものではないのかもしれません。新聞記事の見出しの一つに「「在位」そのものが信仰」ともあります。このブログやメルマガでもさんざん論じているとおり、「信仰」は理屈ではないのです。わかりやすいことが大事なのではなく、わからないこと、不条理なことも受け入れるという態度は、我々現代人から決定的に失われている能力なのです。

 次回のブログでは、ヨハネ・パウロ2世の記事について、『一遍聖絵』から考察してみたいと思います。

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