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2013年 夏の学会・研究会のまとめ⑪〔廃刊メルマガ記事より〕(2014年3月15日)

 現在、昨年夏の学会・研究会のまとめをしています。第11回は、駿台研究所主催で駿台市谷校舎にて実施された〈2013夏期教育セミナー〉の第1弾です。

 白鳥永興先生 「古文をめぐっていろいろ考えてみる―室城先生とともに―」

 *「らむ」の訳出に関する大きな誤解 

 ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ

 『古今和歌集』に収録されている有名な紀貫之の歌ですが、有名にもかかわらず誤って現代語訳が施されている歌の一つだと室城先生は指摘されます。

 「課題」と称して我々に問われたのは、「「花の散るむ」とあるが、友則は、「桜の花の散るを見て」、何を推量しているのか」ということでした。

 この歌の「花の散るらむ」の部分について、「どうして」を補い「どうして花はあわただしく散るのだろう(か)」と疑問文の形になるのは不自然であるというもっともな説明を室城先生はされました。「らむ」という推量の助動詞が単独で用いられているだけで、疑問の要素は存在しないからです。

 ※ちなみに、「どうして」の補いは、室町期の古今伝授がそのまま近世の国学者に継承されたものだという説明がありました。

  「らむ」は、「話し手の、現在そうなっているという推量の判断・認識を表」し、かつ、「む」のように自分についての判断はできません。そうであるならば、「花の散るらむ」は、詞書の「桜の花の散るを見て(詠める)」という目の前の事実に対して、“その花は静心がないんだろうな”と作者が「花」の心を推量しているというのです。

 日の光がのどかに照っている春なのに、その春に背いて散る花は、あわただしい、切ない想いで散っているのだろう。(『新編日本古典文学全集』)

 権威のある注釈書類でも、推量の訳出が怪しいものは少なくないようです。語の出自や原点に立ち戻る姿勢が大切だと痛感させられます。

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