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伊勢神宮――遷宮が支える永遠(2014年1月27日)

 ブログの更新がいつも以上に遅れましたことをお詫び申し上げます。

 先月、友人から突然〝伊勢神宮に行かないか〟と誘われました。年明けて一月の最後の土日で…ということでした。何でも、毎年一緒に参宮している友人の都合が悪くなり、代わりに行ける人を探しているのだけれども、なかなか見つからないということでした。私の職場は土曜日も出勤ですし、新年明けてしばらくはいろいろと週末に出歩いてはいられない事情もありました。しかし、なぜか誘いのあった週の土曜日は休業日で、私は〝返事を数日の間待ってくれ〟と友人に頼みました。式年遷宮の翌年でもあること、数年前の初めてのお伊勢参りは学会の空き時間に駆け足で済ませてしまっていたことから、すぐに断るのも惜しい気がしたのです。

 約束の日が来て、夕方には心を決め、結局は断るつもりでいました。するとそれと前後して、友人より〝返事はどうなりましたか〟ではなく、ストレートに〝行きましょう!〟というメッセージのメールが入っていました。全く予期せず私は、ほぼ反射的に〝行きます〟と返事をしてしまいました。――そうです、この土日がお伊勢参りでした。

 さて今回、一緒に行った友人は毎年参拝しているということもあり、外宮(げくう)・内宮(ないくう)のみならず、別宮(べつぐう)にも詳しく、二日間で別宮の一箇所を除いてほぼ全ての宮をお参りして来ました(外宮には二日間とも足を運んだほどです)。
 一つ断っておきますと、この行程が可能であったのには、二日目の朝は5時30分にタクシーで内宮に向けてホテルを出たことがあります。――この早朝の内宮の参拝での出来事・関心事が、本日のブログのテーマです。しかし、そのことについては後で触れることにしたいと思います。

 話を元に戻して、早朝の参拝です。驚いたのは、内宮には私たちの他にも人がいましたし、参拝後のおかげ横丁の赤福本店では、赤福とお茶ですでに一服終えている人もいたことでした。
 
 しかし、それ以上に驚くべきことが、昼近くになってからありました。

 おかげ横丁を楽しんだことのない私が(初の参拝は夏でしたが、夜に近い時間帯であったため、お店は閉まっていて通りは閑散としていました)わがままを言って、昼時におかげ横丁に宇治山田駅からバスで向かった時のことでした。
 ――各地から来た観光バスが、内宮に入るために列をなし、身動きが取れない状態だったのです! 路線バスは優先的に列の脇を走ることができたので、その様子がありありとわかりました(各地の珍しい観光バスがたくさん並んでおり、内宮から出てくるバスを狙って、少し離れた道路でオタクっぽい三人組が、大きなカメラで次々とバスを撮っていました(笑))。そして、宇治橋前と宇治橋は、五十鈴川に落ちてしまうのではないかというほど、人・人・人であふれ返っていたのです。

 私は思わず〝幕末か!?〟と叫んでしまいました。ホテルや土産物屋の方、タクシーの運転手さんが口々に〝今年は異常〟とおっしゃり、早朝お世話になったタクシーの運転手さんは〝遷宮バブル〟(かなり的を射たうまい表現です!)とおっしゃったとおり、〝ええじゃないか〟と踊ってはいなかったものの、これはやはり不安な時代を投影しての現象なのかと感慨深くなりました。神宮会館前に「国民総参宮」といういくつもの幟(のぼり)がはためいていましたが、それが実現するのではないかと思うような光景でした(なお、国民の一割に近い一千万人超が、昨年は伊勢神宮を訪れたそうです)。

 以上は雑駁な旅の感想でしたが、今回のお伊勢参りで得た最も貴重な体験は、高校の時に教えられた日本の文化の固定的な考えが突如打ち破られたことでした。

 それは、旧社殿と新社殿が並んでいる内宮でのお参りを終えたあと、突然気づいたことでした。
 私は高校の時、西欧では石の建造物で永遠を望んだが、日本の建造物は木(植物)で作られており、永遠でないのが前提であると教えられ、その対照は常識的な知識としてこれまで疑ってみることもありませんでした(『方丈記』『徒然草』といった作品における「仏教的無常観」を踏まえての、当時の国語担当の先生の発言だったと思います)。しかしながらその「常識的な知識」というのは、それよりも大きな真実が見えにくくなっている中で、いくつか確実に見えている事実の一つに過ぎないのではないかと考えたのです。

 以下は、私のその考えについて的確に答えてくれている解説を、「伊勢神宮 式年遷宮広報本部 公式ウェブサイト」の「神宮・遷宮Q&A」コーナーより引用したものです。

 「伊勢神宮 式年遷宮広報本部 公式ウェブサイト」は、残念ながらすでに閉鎖してしまったようです。参考のために、伊勢神宮の公式ウェブサイトより「式年遷宮」の項目のリンクを掲載しておきます。


 Q. 式年遷宮って何のことですか
 式年遷宮の制度は、今から約1300年前に第40代天武(てんむ)天皇がお定めになり、次の第41代持統(じとう)天皇の4年(690)に皇大神宮の第1回目の御遷宮が行われました。以来長い歴史の間には一時の中断(戦国時代)はありましたが、20年に一度繰り返されて、来る平成25年には第62回目の御遷宮が行われます。
 遷宮とは、新しいお宮を造って大御神にお遷(うつ)りを願うことで、式年とは定められた年を意味します。神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年ごとに同じ形の社殿を交互に新しく造り替えます。また神様の御装束神宝も新しくされます。

 Q. なぜ20年ごとですか
 なぜ20年かという定説はありませんが、その理由はいろいろ推定されます。まず20年というのは人生の一つの区切りとして考えられるでしょう。また、技術を伝承するためにも合理的な年数とされていますし、掘立柱に萱(かや)の屋根という素木造り(しらきづくり)の神宮の社殿の尊厳さを保つためにもふさわしいとされています。他にも中国の暦学から伝わったという説などいろいろあります。
 しかし、神宮の式年遷宮は建築物の朽損(きゅうそん)が理由ではありません。この制度が定められたとき、もう奈良の法隆寺は建てられていました。法隆寺は現存する世界最古の木造建築です。当時の技術で立派に永久的な社殿はできたはずです。
 神宮の「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」は、いつでも新しく、いつまでも変らぬ姿を求めて、20年ごとに造り替えることにより永遠をめざしたのです。世界中には永遠をめざした石造の古代神殿がいくつもありますが、世界の建築家や文化学者が「伊勢は世界の建築の王座だ」と絶賛します。それは、原初のスタイルがいつまでも、どの時代にも存在し、今も昔も変らぬまま毎日お祭りがなされているからです。
 20年ごとに生まれかわるという発想、これは世界のどの国にも見られないものです。しかも、神宮が新しくなることで、大御神の、より新しい御光をいただき、日本の国の「イノチ」を新鮮にして、日本全体が若返り、永遠の発展を祈るのです。
 そこには、常に若々しい生命の輝きを求めて止まない日本の民族性を伺うことができます。

 「常に若々しい生命の輝き」――私は内宮にお参りして、突如、生きていることの不思議、私が継承してきた生命の重みに対し、思いがあふれてきました。神殿と同じように、文化は、思想は、生命は、一つ一つがその使命を終えたとしても、次の世代へと永遠に引き継がれていくことに思いが至った時、日本の文化と思想、そして人類の生命の「永遠」に思い至ったのです。

 内宮に参る前日、二見浦(ふたみがうら)の「岩戸館」いう旅館で、昔ながらの製法で作られている「焼き塩」を購入しました。作業場の見学ができるというので入れて頂き、釜の前で休むことなく働いている(ほぼ一日がかりで海水の水分のみを抜いていくそうです)若い方とお話をしました。私が、この製法の継承者は出るのかということについて問うと、〝継承者が出なければ、それはもうこの世にいらないものだと思っています。でも不思議なもので、必要なものであれば、どこからか人がやって来ます〟とおっしゃいました。

 伊勢神宮の遷宮にまつわる技術の継承者が高齢を迎えているという報道を昨年見ました。――日本人の「常若」という思想に支えられた建築技術は、この世に必要のないものなのでしょうか。 
 ――私はそうは思いません。たとえスタートは、〝遷宮バブル〟の年の物見遊山であったとしても、日本の思想の核心となる何ものかを体感した、特に若い方々と子どもたちが、日本の文化に関心を持ち、世界に誇る生命と永遠性の思想と技術とを継承してくれたら…と、切なる思いで祈らずにはいられませんでした。

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