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「不安なんです…」(2014年3月4日)

 漢文訓読の指導中にあった出来事です。

 漢文訓読の初歩の初歩は、白い丸や白い四角を漢字に見立てて返り点を施し、読む順番を数字で書き入れたり、逆に、数字が記された白い丸や白い四角の下に返り点を入れたりします。これが、私もかつてそうだったのですが、パズルのようで面白いという生徒も少なくありません。
 この数週間はこうした作業をくり返し、飲み込みの早い生徒たちは次々と練習問題をこなしていきました。ある時、その〝飲み込みの早い生徒たち〟の一人が、全ての問題を終えたプリントを前にしてこう言ったのです。

 〝(答えが)合っているかどうかいまひとつ不安なんです…〟

 私は〝え~、なぜ!?〟と思いました。確かに、その生徒は理数系の科目の方が得意ではありましたが、これまでの私の経験では、漢文訓読の初歩はむしろ理数系の頭の持ち主の方が柔軟に習得する傾向にありました。要するに、授業内容を十分に理解していると思われていた生徒からの意外な一言に、私は不意をつかれたのです。

 しかし、次の瞬間には〝思い出した〟のです。――この〝作業〟は、あくまで漢文(究極には白文)を読むための最初の段階のものであり、漢文の本質的な部分ではないということを――です(実際、私は自身の研究において、漢字一つ一つの意味を考えた(調べた)上で、白文に訓点を付すこともあります)。
 彼の「不安」とは、数学の計算問題におけるような〝検算〟が、この作業ではできないことを言っているのではないかと思いました。そこで私はこう答えました。
 〝確かにそうだね。それが合っているかというのは、その順番で読んで意味が通じる文になっているかどうかで確かめるものだからね。これは練習だから漢字がないのでそれはできないし…。〟

 そうなのです、これは本格的な学習のための初歩、入門段階における便宜上の〝作業〟であり、この〝作業〟自体が大学入試で出題されたりするわけではないのです。このことは、用言や助動詞の活用表でも同様です。しかしながら、避けては通れないものなのです。実際、英会話の教室で一緒になった〝古典が好き〟という大学生のお嬢さんは、次のように話していました。
 〝古文・漢文は最初のくり返し(←おそらく筆者の言う〝作業〟のこと)が面倒だなと思うけど、わかってくるとだんだん読めるようになって、それで楽しくなってくるんですよね!〟

 〝初歩〟段階を通過し、そこで行ってきた〝作業〟の本来的な意味について考えが及んだ(無意識的にではあるものの)ために〝不安〟になったというのは、学習の正しい道のりなのかもしれません。――〝不安〟は、実際の文章から学びとれる段階に至ったというサインだったのです。

 一方で、〝初歩〟段階から全てを投げ出してしまう子どももいます。決定的な状況に至っても、これまで学習を放棄してきたことを認めることができず、〝初歩〟は馬鹿馬鹿しくてできないと軽んじて、手をつけようとしません。
 ベネッセコーポレーションでは、学び直しを意図した「マナトレ」といった教材を提供していますが、〝不安〟な生徒はこうした教材にも真剣に取り組み、積み残しを明らかにしようとする姿勢がありました。しかし、学習を徹底的に放置してきた生徒ほど、周囲を巻き込んでひたすら学習から逃げようとします。もはやそこには〝苛立ち〟しかありません。

「マナトレ」(ベネッセコーポレーション)

 移行前のブログでは「マナトレ」へのリンクも掲載しておきましたが、現在はサービス終了か名称あるいは形態の変更かでリンクは無効になっていました。上の画像を参考にしていただければと思います。


 先に、本ブログの「続・小説が読めなくなっている」で紹介した『偏差値60以上のできる子の習慣 50以下のできない子の習慣』には、「初歩」と「基礎」について述べられていました。
  「初歩は、入試には出ないが入試問題を解くためには必要なこと。基礎は、実際入試に出るし、入試に出たら、9割方の受験生が正解すること」であり、「初歩をおろそかにし」、教科・科目の「全体像を見ようとしない」のが、偏差値50以下の生徒へ転落する分かれ道であるとします。


 〝不安〟を抱く生徒に対しては、それが今現在取り組んでいる学習の意義に立ち返っているがゆえのものであれば、そこで教員が次の段階へどう橋渡しするかに心を砕く必要があると言えるでしょう。
 また、この数週間の漢文訓読の指導中、学習から逃げていた生徒が驚くほどに変化した例も見ました。次回は、そのことについてお話できればと思います。

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