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古文は読者を信じている(2013年3月10日)

 名作と言われる作品ほど、言葉がシンプルで、かつ、力を持っています。
 『伊勢物語』を読むたびに、そのシャープな表現に、舌を巻きます。そして、生徒たちが古文に興味を抱くきっかけを作品が与えてくれるたびに、その奥深さに感じ入ります。

 昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひ渡りけるを、からうじて盗み出で て、いと暗きに来けり。芥川といふ川をゐて行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ。」となむ男に問ひける。行く先多く、夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥に押し入れて、男、弓、胡簶を負ひて戸口にをり、はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや。」と言ひけれど、神鳴る騒ぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、ゐて来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
 白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを
  【第六段】

 引用は、有名な「芥川」からです。
 高校一年生。理系志望の男子ばかりで、国語は興味があったとしてもあまり得意ではないクラスでの授業で、素朴な発見が数々ありました(ちなみに勤務校は、中学では学習にまじめに取り組んでくることができなかった生徒や、勉強自体ができないし嫌いという生徒が圧倒的に多いです)。

 女を「盗み出でて」の部分でのやり取りです。
 人を盗み出してくるってどういうことなのだと彼らは疑問を持つのです。ちょっと驚きました。以前の授業では説明不要だった部分にまで説明が必要になってきたのかと。しかし、こういう単純な疑問こそ、古文の一語一語の持つ力強さを私自身も信頼し、生徒たちとともに単純に語を読み解いていくところなのです。そこで、〝私たちが物を盗んでしまうというのはどういう時なのだろうか〟と話をふると、国語の得意ではない子たちなので紆余曲折を経ながらも、〝高価なものだから盗む価値があるのだ〟という結論に至りました。そうか、「女の得まじかりける」はそういうことだったんだ、要するに、「女」が「男」とは身分違いの高貴な身分だということに納得するのです。そこで、男が道を急いでいるのはなぜか、女を隠し入れた蔵の戸口(蔵の外)で何を警戒しているのかというのがわかるのです。――「ああ、女を取り戻そうとしている追っ手がいるんだ!」

 そこまでくると「草の上に置きたりける露」を見て、女が男に「かれは何ぞ。」と問う部分でのやり取りもすんなり入っていけました。――「女は露を見たことないんだ!」「追っ手が迫っているかもしれないから男は答えている時間も惜しいんだ!」(ちなみに生徒たちの中にも「露」がどのようなものか説明されるまでわからない子もいました。このあたりのことはまた別の機会に考えていかないといけませんね)。

 それでも、「白玉か・・・」の歌に至り、「玉」が宝石だということを辞書で確認し、「露」が朝の訪れとともにはかなく「消え」るのを自然にイメージできたところで、子どもたちは「露」を「白玉(=真珠)か」という問うた女のイメージ、歌の哀しい美しさに「そっかー、そうなのか!」と気づくことができたのです。

 このように、名作と言われる作品ほど古典常識的な難しい解釈を必要としなくても、必要最低限の辞書引きと、ごく普通の考察や想像で、一つの作品世界を描いていくことができるのです。その体験を子どもたちはとても面白く感じたようです。
 もちろん、私たち教員の側に予習が必要とされないわけではありません。大事なのは、多くの知識が一つに集約されていくような骨太の解釈は、ごくシンプルな読みにこそ支えられるのだということです。多くの知識に目が曇り、かえって作品の持つシンプルな力強さ、輝きを失わせることがあってはならないと思います。

 シンプルで骨太な作品解釈の方法については、このブログの2回目(「自分で学ぶ姿勢・自分で考える姿勢」)でもお話したとおりですが、とても良い本があるので紹介します。

 小松英雄『伊勢物語の表現を掘り起こす《あずまくだり》の起承転結』(笠間書院/2010年8月)


 小松氏は本書を「どの注釈書にも書いてある、いわゆる定説を噛み砕いて解説することが目的ではなく、従来と異なる角度からアプローチによって、どの注釈書にも書かれていない、信頼性の高い解釈を導き出そうとするもの」と位置づけています。「中学や高校で国語科を担当している教員のみなさんにも筆者の考えかたをぜひとも理解してほしいと切望しています」(「イントロダクション」12‐13頁)とも訴えています。
 冒頭では、『更級日記』を例にあげます。物語を読みたい一心で少女が「等身に薬師仏を造りて」祈ったという部分について、実際に少女が薬師仏を造ったり造らせたりすると解釈するのは「改めて指摘されれば、なるほどおかしいと気づく事例」であるとします。
 では筆者の解釈はというと、「人目に付かずに出入りできる秘密のコーナーを見つけて」「そこに薬師仏がおわしますつもりになって」お願いしたのだというのです(「読者のみなさんへのよびかけ」ⅰ‐ⅴ頁)。物語大好きの妄想少女の仏様は《ヴァーチャル薬師仏》であるというわけです。確かに、私自身も確認してみたところ、「つくる」には〝イメージする〟といった意味もあったようですし、当時教えていた高校三年生にこの小松説を紹介したらほとんどの生徒が小松氏を支持、『更級日記』の主人公は生徒の人気者となりました。

 隙が無く論理が組み立てられて展開していく現代の小説とは違い、古文はシンプルな語の一つ一つが読者を信じて、多くを語らないのだと私は考えています。
 子どもたちの洞察力は思った以上に鋭いです。古文がつまらないというのは、もしかしたら私たちの側がすでに間違っているのかもしれないことを、常に肝に銘じておく必要があるかもしれません。

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