人間アップデート

人生って、絶え間ないひとつの流れであるようで、そうでもないような気がする。連続的な日常の節目に、わたしたちはなんとなく覚醒(?)みたいなものを迎えて、その段階ごとに自分が生まれ変わっているような気がする。イメージとしてはiPhoneのOSみたいに、わたしたちの意識も節目節目でアップデートされているような、そんな気がしている。

昔の自分の内面についてあまり思い出せないな、と、ふと思ったことがきっかけで、こんなことを考え始めた。自分を取り巻いていた環境、たとえば毎日歩いた通学路や校庭の広さ、音楽室に続く階段、近所の公園の遊具、などは容易に浮かぶのだ。しかし、わたし、どういうふうに喋ってたっけ?とか、誰と仲良かったっけ?とか、そもそもわたしってわたしだっけ?私?あたし?うち?ぼく?とか、過去の自分の精神面にはフォーカスが合わない。OSと同じで、アップデートされた意識は元に戻せない仕様なのか、過去に体系化されていた、当時の自分の言動や思考を忠実に再現することは、とても難しく感じる。同じ自分であるはずなのに、すごくすごく遠く感じる。もはや同じ自分とは思えないくらい、精神的な距離がある。

昔の自分がぼんやりとしか思い出せないのは、こういう訳なのかなあ、などと思う。きっと人間の意識、というか脳、というのは、肉体という機械を司るOSであって、都度アップデートを行なっている、という比喩はわりと適切なのだと思う。環境に合わせて生きていくため日々微細なデバッグを行い、少しずつ姿を変えてきたわたしたちの意識は、数年前の旧バージョンとは大きく隔たっているのかもしれない。そう思うと、なんだか随分遠くまで来てしまったような感じがする。肉体は入れ替わった細胞で、精神はアップデートされたOSで、毎日動いて考えて、でも10年後にはまたすっかり入れ替わっているならば、その時わたしが「わたし」であるという確証なんてあるのだろうか。わかりませんね。

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