此岸からの祈り

ビリヤードのように散り散りとなった感情をひとつずつ収めていくしかない日々である。ふいに規則無く積まれた本の山から江國香織の『つめたいよるに』を手に取った。抱え切れぬ悲嘆をフィクションへ押し上げようとした。
創作はけれど、現実に洩れ、やはり心を蝕んだ。

愛犬が虹の橋へ旅立った。
12年と8ヶ月。私たちは家族であった。

病は無言に訪れる。二ヶ月前、平時にやや咳の混じる程度の軽症で動物病院を受診した。健啖であり身動きも軽快な容体は、しかし既に末期であった。余りに唐突な宣告は、徒に楽観さえ引き起こした。

日に日に食は細くなり、気づけば横臥が常となった。そうして僅かひと月も経たぬ間に、対処療法で苦しみを緩和させることだけが残された道となった。
余りの危急に翻弄され、己の無力さに憤った。

万策尽きれば、藁にも縋る想いに駆られる。
「どうかあともう一日だけ」
たったひとつの願いを多神教的な祈りにのせた。
けれど冷酷な統計から、別れがそう遠くないことも識っていた。

夏の面影を残した初秋の晩、家族に囲まれながら、僅か3kgばかりの小さな体は生命活動を終えた。

死に向かう者はあるプロセスを踏むと言う。
否認と孤立に始まり、その無慈悲に怒り、どうか命だけを取り戻したいと神仏と取引を試み、抑うつを経て、受容に至る。
当人でなくともそれは同じだ。

懸命に生きた。
そう尊崇する一方で、喪失は無理無体に迫ってくる。
もうあの子は居ないのだと。

生命活動を終えたという事実は不変である。
肯定的であっても否定的であっても、心の作用は眼前の事実に無力でしかない。
しかしそれは意味を見い出したがる。
幸福だったろうか。辛くなかったろうか。
向こうで楽しくやってるだろうか。寂しくないだろうか。
またいつか会えるだろうか。

頭で整理を試みる度、心は一層反発する。
生まれたものはいつか死する。
それこそは生物生命の理だと悟りながらも、反駁悲嘆に暮れるのだ。

骨壷へ手を合わせる。
天国や極楽浄土、そんな救いの地が仮構に過ぎないとしても、虚構に救われるのも人間というものだ。
此岸から果てしなく祈りを捧げる。

初七日を過ぎれば、感情の起伏も落ち着いた。
心はもう大きく動かない。
忘却は身勝手に進んでしまう。

外灯の明かりは乱反射し、残光がカーテンの隙間から溢れる。また眠れぬ夜である。現実を受け止めきれない心は今夜も過去を求めるだろう。ことわりとして朝日は昇る。月日は無情に巡り、立ち尽くす今日さえ自ずと過去に変わってゆく。

離別を悲しむということは、日々が幸せであった証だろうか。
あの幸せがなければこうも悲しむこともなかったのだ。
独りごち、目を閉じる。
そうして今も尚、あの日々を諳んじている。

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