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アクシオム交代の科学論(2011)

アクシオム交代の科学論
Saven Satow
Sep. 26, 2011

「すべてが変化し、何者も滅びない」。
オウィディウス『変身物語』

 2011年9月23日、名古屋大学や神戸大学などが参加する国際共同研究グループOPERAがニュートリノが超光速で運動するという実験結果を発表する。相対論が絶対最速とする光速をニュートリノの運動速度が越えたというわけだ。

 ところが、専門家の間では懐疑的な見方が少なくない。実験方法の妥当性や従来の観測データとの整合性といった疑問が投げかけられている。それ以上に、これが招かれざる客であることも大きな理由だろう。相対論にほころびが目立ち始め、新たなグランド・セオリーの必要性がコミュニティの中で暗黙の了解となっているときに、この発見が飛びこんできたならともかく、依然として現代物理学の共通基盤である現段階でこんな結果はお呼びでない。

 支配的な理論と合致しない実験・観測結果が出た場合、機軸には手をつけず、その異議が申し立てられた理由を探ろうとする。ここで多くは解消される。それでも謎が解けず、さらに追認するような実験・観測が続く際には、機軸理論の見直しの作業に科学者コミュニティは入る。新発見発表から3日後、OPERAは再実験の意向を明らかにしている。当然の判断だろう。

 19世紀前半、ジョン・ハーシェルやウィリアム・ヒューエルらが科学論を展開し始める。1920年代、ウィーン学団が論理実証主義によって科学論を飛躍させ、60年代、トマス・クーンがパラダイム論を唱え、それを批判して科学相対主義の道を開く。現在までの成果の外観は次のとおりになろう。西洋において、中世以来「真理」が教会権力の権威に依拠していたが、17世紀頃から専門家コミュニティのコンセンサスに移る。この分野の専門家の関心はこの同意がどのように形成・改変されるかにに向けられる。学団のカール・・ポパーの「反証可能性」は日常的・連続的な変化、クーンの「パラダイム・シフト」は非日常的・非連続的な改革である。通常は前者で科学は進展するが、時々、後者が起きて、制度的認識を一変させる。20世紀に入り、科学と技術が融合し、世紀の後半を迎えると、科学技術はその応用において社会的な同意を必要とする。それは真理の社会化である。さらに、現代ではグローバリゼーションに伴い、真理のグローバル化が生じている。幅広い社会の中の科学が論じられるときが来ている。

 クーンのパラダイム論のインパクトは大きく、この概念は科学論を超えて用いられている。クーンの『科学革命の構造』によると、パラダイムは「ある期間を通して科学研究者の集団に問題や解放のモデルを提供する普遍的に認められた科学的成果(achievement)」である。パラダイムの成立がその分野を「科学」と呼び得る明確な基準である。累積的な過程ではなく、あるパラダイムが別のそれにとって代わる革命こそが科学の歴史である。

 しかし、科学理論上のヘゲモニーの移動の後を見ても、旧理論が絶滅しているわけではない。大きく二種類の勢力地図の塗り替えが起きている。

 一つは、新しい理論に古い理論の一部ないし全体が組みこまれるケースである。アリストテレスの自然学の知見の多くが現在では否定されているけれども、観察と推論という姿勢は有効である。また、集合論が登場し、従来の数学がその記法によって書き得ることが明らかとなる。現代数学は集合論に基づいて再構成された体系である。

 もう一つは、新しい理論がカバーしきれない領域で古い理論が生き残り、存在感を発揮するケースである。古典ギリシアで発達した総合幾何に代わって、計算によって命題を証明する解析幾何が17世紀に誕生する。けれども、角度の問題に関してはカルテジアン座標はお手上げで、伝統に頼らなければならない。また、電車の設計には、相対論も量子論も不要である。しかし、ニュートン力学と電磁気学は必須である。加えて、車体のデザイン設計には、有限要素法が欠かせない。車体には、伸び・縮み・曲げ・捻りの四種類のストレスがかかるが、想定された条件下で、それに耐え、フックの法則が成り立つようにしなければならない。そこで、形状を小さな三角形に分割して表現し、変形を確認する。これは要素還元主義であり、典型的なデカルト主義である。

 このように、ヘゲモニー移動の後であっても、見方を変えれば、旧理論も依然として有効である。宗教会議の正統=異端論争のように、勝った側が公認教義の地位を獲得し、負けた側が追放されるわけではない。実態を考慮すると、パラダイム・シフトではなく、「前提交代(The Alternation of Axioms)」の方がふさわしい。アクシオムはその理論体系の根幹をなす原則である。前提が変われば、それに基づく体系も変更される。前提は見方に依存する。直線外の一点を通り、これに平行な直線は一本だけという前提を二本以上あるもしくは一本もないに交換すれば、ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学へと交代する。

 科学に携わる際には、見方に応じて、前提を検討する必要がある。大きな対象を扱うのがマクロな見方、小さければミクロというわけではない。宇宙を考察していてもミクロな見方はあり得るし、原子でもマクロとなることもある。科学は重層的である。

 従来の前提を変更したある理論が登場し、主導権を握ると、インフレーションが起こり、群生が生じ、その影響は特定分野を超えて波及する。しかし、次第にほころびが目立つようになり、限界に達し、新たな理論と世代交代すると、収縮していき、原点に回帰して等身大に落ち着く。デフレーションしても、以前に戻ったわけではない。膨張の過程で世間に認識が定着し、常識化している。

 理論に限らず、前提の交代はともかく、技術の分野でもこうした膨張=収縮過程を辿る場合も少なくない。身近な例で言うと、日本におけるラジオやテレビがそうである。

 ラジオは、最初に普及した鉱石ラジオが物語るように、パーソナル・メディアとして登場している。昭和初期に、街頭ラジオが出現、大戦前後に家族団欒の必需品になっていく。けれども、テレビの台頭と共に、個人的に楽しむメディアへと回帰し、ラジオは今でも欠かすことができない。

 テレビも、日本では、広告収入を原資とする民放の街頭テレビと受信料に基づく公共放送の小型化という二つの流れから世間に浸透している。さまざまなメディアが現われる中でも、今日でもパブリック・ビューイングやワンセグでテレビは存在感を示している。テレビの将来について議論されるが、マスメディアという本来の分類を考えれば見えるものだ。

 新しい理論や技術が登場すると、古いそれは相対化され、その固有さを模索する。自分らしさを思い出し、背負ってきた重荷を降ろして、等身大で生きていく。おそらく、科学技術において、新旧の世代交代の際に、「死」を宣告するのは一面的である。実態ははるかに重層的であろう。科学は認識の広がりをもたらしてきたはずだが、その哲学・歴史の考察が狭い視野であってはいただけない。人類はこれまで数多くの前提を手にしている。それを進歩と呼ぶかはともかく、認識の柔軟さと受けとめるのは意義あることである。
〈了〉
参照文献
T・S・クーン、『科学革命の構造』、中山滋訳、みすず書房、1971年

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