情報化社会だからこそ要約力を(2010)
情報化社会だからこそ要約力を
Saven Satow
Nov. 14, 2010
「逆に言えば、できない人は、それだけ真剣に野球を考えていないといわれても仕方がないんだよ。真剣に考えたら何らかの糸口はでてくるって。絶対でてくる。出てこないのは、体を動かす量は多くても、考える量が少ないんだよ。やる量は多いけど、何も考えていないんだな」。
落合博満
ある文章についてのブログ記事やコメントを読むと、執筆者が要約する能力に乏しい場合が少なくない。文章全体を考慮せず、その位置を気に留めないまま、ある部分にのみ拘泥している。揚げ足とりに終始する皮肉屋もいるが、時に、くどくどと詳細に記した挙げ句、本筋と違う方向に議論を持っていこうとする人さえ見受けられる。
そういった意見の記述は二つに大別できる。一つは、全体を把握できないために、自分にとってイメージできる部分にだけ取り組んでいるタイプである。もう一つは、最初から結論があって、そちらに議論を誘導しようとするタイプである。細部に拘り、分量が多い記述には後者の傾向がある。
本人たちはそれで満足しているかもしれない。けれども、これらは、はっきり言って、不毛である。確かに、社会調査の質問文の作成の際に、「ステレオタイプ」を避けることが必須とされている。それは、好き=嫌いや善い=悪いなどの強い感情的反応を引き起こしてしまい、その言葉にだけとらわれた回答が現われてくる危険性があるからだ。しかし、すべての文章が社会調査の質問文というわけではない。
それにしても、長い文章ならともかく、400字詰め原稿用紙10枚程度でさえ要約できないというのも奇妙である。ポイントをつかみ、全体を要約した上で、部分を論ずるような態度が身についていないと言わざるを得ない。
実際、要約力は意識的に鍛えないと、習得できない。新聞やネットのニュース記事を読む際に、要約力は必要とされない。紙面上の各記事は相対的な関係にある。重要なニュースが入ると、相対的にバリューが低いと見なされた記事は短縮される。記事は、そのため、切りやすいように前の方に要点が記され、詳細は後の方で言及される。しかし、すべての文章がこのように構成されているわけではない。全体に眼を通して、文章の構成に注意し、ポイントを探して要約する。読解には要約力が必要である。
要約することは頭の中の整理でもある。ある部分にのみ反応して、全体を話題にできなければ、コミュニケーションにならない。逆に、趣旨がわかれば、部分的にわからなくても、その意味を推測できる。未知のものにも対処可能である。コミュニケーション能力の向上には要約力が不可欠だ。
ネット・ユーザーの間でしばしば誤解されているのが、情報社会に反射神経が重要だという点である。これだけ情報が氾濫すると、発信の速さはもはや重要ではない。クロード・シャノンを持ち出すまでもなく、情報量が増えれ、。ノイズも増加する。伝言ゲームを思い浮かべればよい。インターネット上の情報は総体的に質が低く、知的営みへの変換効率はよくない。速さへの偏重は不確実さを増すだけで、それはノイズと同じである。
情報が氾濫している社会だからこそ要約力が不可欠である。ノイズは分析したところで何の情報も与えてくれない。情報を確実に分析・判断するためには、ノイズを取り除く要約力が要る。ノイズが多くては情報を消化しようにも、なかなかできない。要約力の強化は情報の消化力の向上につながる。
〈了〉
参照文献
スポーツ・グラフィック「ナンバー」編、『豪打列伝2』、文春文庫ビジュアル版、1991年
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