見出し画像

安倍首相国連演説と同悲同苦(2015)

安倍首相国連演説と同悲同苦
Saven Stow
Oct. 03, 2015

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」。
アントワーヌ・ド・サン=テクジュペリ『星の王子さま』

 2015年9月29日、安倍晋三首相が国連総会で演説した際、会場がガラガラだったと話題になっています。確かに、他の首脳と違い、空席が目立ちます。

 安倍首相の演説は、概して、国会の所信表明の同工異曲です。これまでの実績と今後の目標に就いてアピールするだけです。けれども、明確なテーマがある演説では、自己中心であってはなりません。そのテーマが歴史的・同時代的にいかに位置づけられ、それに対してどのような貢献をするかが語られなければなりません。テーマのある演説なのに、自慢話や自己宣伝を聞かされるのであれば、席も経ちたくなるというものです。

 一般討論演説の後の記者会見で、シリア難民の受け入れについて問われた安倍首相は、女性や高齢者の活用が優先と答えています。難民と移民を混同しているわけです。直近の最大の関心事の一つであるシリア難民問題についてお話にならない応答しかできない首脳であるなら、その演説を聞かなくてもいいと思うのも当然でしょう。

 安倍首相は歴代総理の中で最も言葉が軽いと評されています。口ではなく、言葉が軽いということは内実が伴っていないことを指し示しています。彼は口先だけの嘘つきとも言われています。

 言葉と内実と言えば、兵庫県の龍門寺に盤珪永琢禅師のこんなエピソードが伝わっています。 盤珪永琢(ばんけい・ようたく)は江戸時代前期の臨済宗の僧侶です。臨済宗は難しいとされ、なかなか庶民の間に浸透しませんでしたが、この和尚は不生禅を唱え、噛み砕いた言葉で法を説いています。そのため、大名から庶民に至るまで受け入れられ、教化した道俗は1.300人に及ぶとされます。

 ある目の不自由な男がいます。自分は声だけで人の話を判断しているけれども、内容と語調が違うと言うのです。お祝いの話をしているのに、声からは嫉妬が聞こえてきたり、お悔やみを言っているはずなのに、自分でなくてよかったと安堵の響きがしたりすると告げます。ただ一人内容と語調が同じいて、それが盤珪和尚だと明かします。

 盤珪和尚はお祝いの言葉を口にする時には語調もその通り、お悔やみを言う時もそうです。内容と語調がずれていません。心にルサンチマンがなく、無我というわけです。自分の心が無であるから、相手と同じように感じられるのです。これを「同悲同苦」と呼びます。

 無我とはルサンチマンに囚われないという意味でもあります。それは他と比較してあるがまま、すなわち如是の自分を認められない心情です。そうした人の言葉は内容と語調が違い、同悲同苦になりません。あの目の不自由な男には、表情やしぐさに惑わされませんので、すぐに気がつくのです。

 安倍首相は谷中の全生庵などで時々座禅を組んでいます。山岡鉄舟に由来するこの寺は臨済宗に属しています。彼は、2014年4月20日の座禅の後、「無我の境地はまだまだです」とツイートしています。

 ここでも軽々しく無我の境地を使っています。そもそもそれが何を意味しているのかを吟味したことがあるのかさえ疑問です。僧侶がなぜ修行するのかを考えれば、こんな発言はしない者です。インスタント座禅で到達できるくらいなら、その概念も生まれないでしょう。

 言葉が軽いのは我に固執しているからです。自己中心的ですから、相手に共感できません。内実が伴いませんから、上滑りだけになります。重みがないのも当然です。しかし、政治指導者の言葉は国家の運命を左右することがありますから、その軽さはあってはならないものです。

 座禅をすれば無我の境地に絶対に到達できるわけでもありません。安倍首相はその前に自らの言葉を振り返る必要があります。あの目の不自由な男でなくても、言葉に内実が伴っていないと見抜かれています。総理の職を辞して同悲同苦に達するように修行すべきでしょう。
〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?