アメリカ大統領暗殺と銃(2007)
アメリカ大統領暗殺と銃
Saven Satow
Apr. 25, 2007
「カタツムリに殻の様子を教えてやれるのは、カタツムリ以外のものである」
エルバート・ハバード『ロイクロフトの警句集』
第1章 19世紀の大統領暗殺事件
2007年4月16日、バージニア工科大学で、32人が射殺され、その犯人チョ・スンヒも自殺するという痛ましい事件が起きています。しかし、政治家たちの間からは銃規制の動きは盛り上がってはいません。むしろ、自衛のために、銃をもっと自由に持てるようにすべきだという意見さえ上がっています。
けれども、アメリカ合衆国では、10人の大統領(経験者)が銃による暗殺(未遂)事件に遭っているのです。
最初に暗殺のターゲットとなったのは第7代大統領アンドリュー・ジャクソンです。1835年1月30日、彼は、議事堂内の中央広場で下院議員の葬儀に列席中、2メートル弱の至近距離からリチャード・ローレンスによって狙撃されそうになりましたが、不発のため、未遂に終わっています。このペンキ職人には精神障害があります。自分は「リチャード3世」であり、イギリスに莫大な資産があるのに、それを使えないのは、大統領が国立銀行に反対しているからだと動機を説明しています。裁判では責任能力を問えないと判断され、精神病院内でその後の人生を送っています。
2人目が第16代大統領エイブラハハム・リンカーンです。1865年4月14日、ワシントンのフォーズ劇場(Ford’s Theater)で、ジョン・ウィルクス・ブースによって暗殺されています。この役者は南部の独立主義者で、大統領の政策に反対し、彼を激しく憎悪しています。ブースは、暗殺前、未遂に終わったものの、二度もリンカーン誘拐を計画しています。実行後、ブースは逃亡しますが、バージニア州の農家のタバコ貯蔵用の納屋に隠れていたところを軍隊に包囲され、いぶりだしのため、火が放たれます。南軍の捕虜になっていた兵士に撃たれ、苦しみながら息絶えます。
アメリカはしばしば「銃社会」と呼ばれますが、その基礎となったのは南北戦争です。この内戦の死者は、アメリカが関わったそれ以外のすべての戦争の犠牲者の総数を上回っています。この間、多くの新兵器が導入され、銃器産業も各段に発達します。しかも、戦争が終わっても、北軍は武器を兵士から回収しません。南北戦争以前、銃は宝石を埋めこんでいたり、豪華な装飾が施されていたりして、量産できず、高価で、希少です。米国史や銃の歴史を知らないと、憲法や西部開拓に銃依存体質の原因を見てしまいます。似たような開拓の歴史を持つ旧イギリスの植民地の中で、合衆国だけ「自己防衛」を理由に銃が野放しになったのは、こうした内戦の経験が尾を引いているのです。
南北戦争以降、今日ほどではないにしても、銃が市井に行き渡り、大統領に銃が向けられることも増えていきます。
188年7月2日、第20代大統領ジェームズ・ガーフィールドは、ワシントンの駅前で、チャールズ・ギトーに銃撃されます。彼は事業・宗教・政治などありとあらゆることに手を出したものの、すべて失敗したのですが、ガーフィールドが当選したのは自分のおかげだと思い込みます。そこで、支離滅裂な大統領演説用の原稿と引き換えに、駐オーストリア米大使かパリの総領事にして欲しいと要求しようとします。
しかし、結局、暗殺することを決めます。撃った直後、「刑務所の正面に連れて行ってくれ、三階だ。そしたら君を警察署長にしてあげよう」と取り押さえた警官に答えています。裁判では、歌を歌い、自伝からの引用を口にし、陪審員を睨みつける彼の責任能力が問題となりましたけれども、殺人罪で有罪となります。1882年6月30日、公開処刑されましたが、執行されるまでの間、自讃する言葉を発し続けています。今日、彼に精神障害があったと見なされています。
第2章 20世紀の大統領暗殺事件
1901年9月6日、第25代大統領ウィリアム・マッキンレーは、ニューヨーク州バッファローで開催されたパン・アメリカン博覧会の会場で、レオン・フランク・チョルゴッシュによって至近距離からピストルで撃たれています。このポーランド移民の子は「貧乏人にとって繁栄がないときに金持ちの繁栄を象徴するもの」として大統領を憎んでいます。アナーキストを自称していたものの、ノイローゼ気味で、以前から挙動がおかしく、アナーキストのグループからもつまはじきにされ、所属していたという記録はありません。わずか8時間の裁判の結果、彼は電気椅子に送られます。労働者階級の間で神格化されることを恐れた当局は、遺体を硫酸で完全に溶かしてしまいます。
1912年10月14日、第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、ミルウォーキーのビルパトリック・ホテルから演説会場に向かうために、車に乗りこんだとき、ジョン・シュランクから胸を撃たれています。ルーズベルトは一度引退していたのですが、進歩党から大統領選挙に立候補し、その最中の事件です。内ポケットに入れていた二つ折りの50ページ以上の演説原稿と眼鏡ケースが、幸運にも、彼の命を弾丸から救います。これを政治的チャンスと考えた元大統領は、そのまま会場に直行し、自分がいかにタフであるかを聴衆にアピールして、50分も演説をしています。
シュランクはドイツ移民で、経済的には恵まれていたものの、孤独でした。あるとき、暗殺されたマッキンレー前大統領が自分を殺したのはルーズベルトだと指さす幻影を見て、殺害の託宣が下ったと信じこみます。後をつけ回し、暗殺の機会をうかがっています。精神に異常があると判断され、精神病院の中で生涯を終えています。
1933年2月15日、大統領当選者フランクリン・D・ルーズベルトは、フロリダ州マイアミで、ジュゼッパ・ザンガラからピストルで襲撃されます。これは当選後ですが、就任前の事件です。レンガ工としてはいい腕をしていたこのイタリア移民は、世界恐慌の中、何も信じないと口にする孤独な男で、いつも腹痛に悩んでいます。未来の第32代大統領は無事でしたが、隣にいたシカゴ市長アントン・サーマックが死亡し、その殺人罪により彼は電気椅子に送られます。生前、指導者という奴はどいつもこいつも気に食わないと言っています。『異邦人』のムルソーのように、自分の死を望んでいるような男です。
1950年11月1日、第33代大統領ハリー・S・トルーマンは、迎賓館ブレア・ハウスで、オスカル・コラゾとグリセリオ・トレソラの2人のプエルトリコ独立主義者に襲撃されます。彼らはプエルトリコでの武装蜂起に合わせて劇的な事件を起こし、自らを犠牲にして、プエルトリコ人の独立要求をアメリカの人々に知らしめ、関心を集めるのが目的です。2人は玄関から押し入ろうと守衛に発砲しましたが、トレソラはその瀕死の守衛に射殺され、コラゾも撃たれて、進入できません。彼は死刑判決を受けたものの、その後、減刑され、1979年、恩赦によって釈放されています。
1963年11月22日、第35代大統領ジョン・F・ケネディは、元海兵隊員のリー・ハーベー・オズワルドによって、狙撃されます。オズワルドは独占欲の強い母親の手で育てられています。学校で友達をつくろうとせず、海兵隊に入隊したものの、仲間はずれされ、除隊後、ソ連に亡命します。けれども、馴染めず、アメリカに帰国したかと思うと、再びソ連に行こうとしますけれども、断られています。キューバへの移住神聖を出しますが、相手にされません。そうこうしているうちに、妻からも逃げられてしまいます。オズワルドはいつでも不満を抱えているような男です。
第38代大統領ジェラルド・R・フォードは、いずれもカリフォルニア州で、女性に二度狙われています。
1975年9月5日、サクラメントを訪れた大統領の護衛官は1メートルもない至近距離でピストルを構えたリネット・アリス・フロムを取り押さえます。ところが、実弾が込められていません。彼女はカリフォルニアの中流家庭に生まれますが、厳格な航空技師の父と争いが絶えず、家出をします。その後、シャロン・テーと殺害で知られるチャールズ・マンソンの女性信奉者のグループに入ります。犯行の動機は、事件を起こせば、自分の裁判に当時逮捕されていたマンソンが証人として呼ばれ、そこで彼の正しさをアピールできると考えていたためとされています。彼女には大統領暗殺未遂により終身刑の判決が下されます。87年12月、脱獄しましたが、失敗に終わっています。
同月22日、大統領がサンフランシスコのセント・フランシス・ホテルを出ようとすると、泥酔したサラ・ジェーン・ムーアから銃撃されますが、幸い、弾はそれます。調べてみると、二日前に銃の不法所持で逮捕され、釈放直後に犯行に及んだことがわかっています。しかも、彼女は地元の過激派の近くにいるFBIの通報者です。何をやってもうまくいかない女性です。終身刑の判決を受けますが、彼女も一度脱獄をしたことがあります。
1981年3月30日、第40代大統領ロナルド・レーガンは、ワシントンDCのワシントン・ヒルトンの横玄関前で、ジョン・ワーノック・ヒンクリー・ジュニアに銃撃されます。彼はコロラドの裕福な家庭に育ちますが、影が薄く、それと同時に凶暴さを秘めています。ジョディ・フォスターの熱狂的なファンで、気を惹こうと躍起になり、『タクシードライバー』の運転手に自分を重ね合わせて犯行に及んだとされています。ジョディ・フォスターに君のためにレーガンを暗殺すると手紙を書き送っています。別に、レーガンでなくてもよかったらしく、ジミー・カーターをターゲットにしていたのですが、果たせず、新任者を改めて狙っただけのことです。当局は大統領暗殺者のプロファイリングを行っており、彼はまさにその通りの人物です。ヒンクリーは、裁判で、精神疾患があると判断され、精神科医の保護下に置かれます。この判決に、大統領は強い不満を漏らしています。
さらに、大統領候補が襲われた事件もあります。
1968年6月5日、前日にカリフォルニア州の予備選挙で勝利したロバート・ケネディ上院議員は、ロサンゼルスのアンバサダー・ホテルで、サーハン・サーハンによって射殺されています。サーハンはエルサレムで生れましたが、シオニストによって故郷を追われ、1956年、アメリカに家族で移住します。けれども、しばらくして父はヨルダンに戻ってしまいます。残った家族の生活は苦しく、また、アメリカにも馴染めず、不満を募らせています。ケネディ議員がイスラエルへF4ファントム50機を売却することを提案したと知り、イスラエルよりだとして凶行に及んだとされています。
1972年5月15日、アラバマ州知事ジョージ・C・ウォレスは、メリーランド州ローレルのショッピング・センターでの演説中に、アーサー・ブレーマーにピストルで撃たれます。彼は支持者として選挙キャンペーンについて回っていたため、警備も油断しています。知事は一命はとりとめたものの、下半身が麻痺し、大統領選への出馬を断念しています。このブロンドの青年はハンサムでしたが、問題の多い家庭に育ち、友達もできず、恋愛でもうまくいきません。
第3章 暗殺者とアメリカン・ドリーム
これだけ暗殺(未遂)事件があっても、政治家の間では銃規制の声がそれほど高まらないのです。実際、撃たれても、フォードやレーガンは銃の規制に積極的に動いていません。ただ、レーガン暗殺未遂事件の際に頭部を撃たれて車椅子生活を余儀なくされたジェームズ・ブレイディ報道官が銃規制に取り組んでいます。今のところ、銃を重大な犯罪暦や精神疾患があるものには販売しない程度です。しかし、一連の事件を振り返って見ると、相手が失敗しない限り、銃から身を守ることはできないということが明らかになります。
こうした暗殺者たちは、『ジャッカルの日』に登場するような鍛えられた高度な技能を有したプロフェッショナルではありません。情緒が不安定だったり、精神に疾患を抱えたりするアマチュアです。大部分は、孤独で、家族や友人と疎遠、仕事がなく、社会的不適応者、認められたいと願っている人物です。政治的や宗教的な理由を掲げていても、どちらかと言うと、個人的なルサンチマンの暴発が暗殺に駆り立てていると考えるべきでしょう。オズワルドを射殺したジャック・ルピーは、その動機を尋ねられて、こんな「クズ」がケネディ大統領を殺したのが許せなかったからだと述べています。
大統領暗殺(未遂)事件が起きると、陰謀説が浮上しますが、こうした「クズ」が偉大な大統領を撃ったなどと受け入れがたいからかもしれません。
けれども、暗殺者はその社会の問題点を写し出すものです。インディラ・ガンジー、アンワル・アッサーダート、全斗煥、マーガレット・サッチャー、イツハク・ラビン、ハーミド・カルザイなどへの暗殺(未遂)は、明らかに、その社会の最大の問題から生じています。日本の場合も、二人の長崎市長が端的に示しているように、同様です。
鬱屈とした精神状態の社会的不適応がその不満の爆発として銃犯罪へ駆り立てられているとしたら、なるほど、銃を規制すればすむという単純な話ではないでしょう。もっと根深いのです。今ほど銃が全米に蔓延する前からアメリカでは、孤独な社会的不適応による銃を使った大統領暗殺が企てられてきました。孤独な社会的ミスフィットを生み出し続けてきたことが根本的な問題なのです。だとすれば、銃規制の方がずっと容易に違いありません。銃の所持を擁護している場合ではないのです。
「アメリカでは、誰もが成功できる」というアメリカン・ドリームの神話があります。神話は共同体の道徳規範の基礎づけとしての役割を果たしまします。可能性は、往々にして、義務へとすり替わってしまいます。アメリカでは、成功しなければならないというわけです。暗殺者たちは失敗者でしたが、それはある種の道徳的堕落として彼らに迫ってくるのです。そんな彼らが狙うべきはアメリカの夢を象徴する大統領以外にありえません。
チョ・スンヒも、大統領の暗殺者同様、孤独な社会的ミスフィットです。今回の乱射事件に対し、銃以上に暴力的ゲームを規制すべきだという主張が再燃していると報道されています。しかし、彼らはゲームの登場前からアメリカに現われています。そんなミスフィットが銃口を向けるのはアメリカの夢にほかならないのです。
〈了〉
参照文献
阿部斉=久保文明、『現代アメリカの政治』、 放送大学教育振興会、1997年
宇佐美滋、『アメリカ大統領を読む事典』、講談社+α文庫。2000年
床井雅美、『図説・世界の銃パーフェクトバイブル』、学習研究社、2004年
油井大三郎、『アメリカの歴史』、放送大学教育振興会、2004年
『新書アメリカ合衆国史』1~3、講談社現代新書、1988~89年
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