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「無思想化」の政治(2018)

「無思想化」の政治
Saven Satow
Sep. 21, 2018

「人間は、自己以外のものに働きかけ、それを変えることによって、自己そのものを変えていく。自己を変えずに相手だけを変えることはできない」。
竹内好『文学革命のエネルギー』


 安倍晋三首相は、2018年9月20日に投開票が行われた自民党総裁選の結果、3選を決める。連続2期までという総裁任期に関する党規約を変更させ、選挙で姑息な手段を駆使して、望みをかなえている。

 安倍首相はすでに21世紀で最長の在任期間に足している。この長期政権の特徴の一つに、閣議決定による自らの内閣の無謬性を正当化することが挙げられる。これは、天皇陛下の決済を必要とする最も格式が高い内閣の決定であるが、安倍首相は自らのミスを隠蔽したり、批判を封殺したり、持論をゴリ押ししたりするなど正当化のために利用している。

 その中には、朝日弘行記者による2017年5月12日付『毎日新聞』の「『そもそも』用法、政府が答弁書で正当化」によれば、次のような単語の意味の変更も含まれている。

 安倍晋三首相の国会答弁で話題になった「そもそも」の用法について、政府は12日午前の閣議で、「大辞林」(三省堂)に「(物事の)どだい」という意味があり、「どだい」には「基本」の意味があるとの答弁書を決定した。(略)
 答弁書は、「どだい」を間にはさむことによって首相の答弁を正当化する苦肉の策。「そもそも」の意味として「基本的に」を記載した辞書が実際に存在するかどうかについては、直接答えなかった。

 この「どだい」は、「どだい無理な話だった」のように、「最初から」の意味である。「基本的に」ではない。閣議決定に従って「そもそも」を使ったら、一般的には通じない。

 安倍政権の狂信的支持者であるネット右翼にも首相同様の傾向が顕著である。彼らは、安倍首相に反すると自身が認定すると、あれとあらゆるものに「反日」のレッテルを貼りつけ、激しく攻撃する。右翼でありながら、天皇皇后両陛下でさえその標的にしている。そこには安倍政権の無謬性だけが主張され、思想としての整合性などなく、ただ破壊があるだけだ。

 安倍政権は人々に過去をしばしば追体験させる。こうした無謬性への固執もそうだ。それは「大東亜共栄圏」である。

 竹内好は、『アジア主義の展望』において、「大東亜共栄圏」について「アジア主義も含めて一切の『思想』を圧殺した上に成り立った擬似思想だともいうことができる」と次のように批判している。

 思想の圧殺は、左翼思想からはじまって、自由主義に及び、次第に右翼も対象にされた。中野正剛の東方会も、石原莞爾の東亜連盟も弾圧された。これらの比較的にはアジア主義的な思想を弾圧することによって共栄圏思想は成立したのであるから、それは見方によってはアジア主義の無思想化の極限状況ともいえる。

 1930年代の「大東亜共栄圏」は、彼によれば、「ある意味でアジア主義の帰結点であったが、別の意味ではアジア主義からの逸脱、または偏向である」。およそ思想は建設性を持つものである。ところが、「大東亜共栄圏」にはその建設性がない。批判されたら、弁証法的にそれに応えて発展することで、思想は構築されていく。しかし、「一切の『思想』を圧殺」しては何も建設されない。大東亜共栄圏が思想として国内外に広く受容されるには普遍的な説得力を持たなければならない。だが、それがない。その発想が無謬であると正当化しているだけだ。「大東亜共栄圏」は大日本帝国にとっての正当性があっても、それを超える正統性を持たない発想である。

 丸山眞男は『正統と異端』において正統性を二つに分けている。一つは普遍的な教義に基づく「オーソドキシー(Orthodoxy)」としての「O正統」、すなわち「学統」である。もう一つは国家や民族、共同体内の「レジティマシー(Legitimacy)」にすぎない「L正統」、すなわち「治統」である。その上で、彼は、日本の歴史にはL正統があってもO正統はないと説く。正当性は存在しても、正統性は不在だというわけだ。

 「大東亜共栄圏」は正当性のために、正統性を圧殺したということになる。それはO正統に立脚したL正統ではない。

 丸山の『正統と異端』における主張が妥当であるかどうかはさておこう。正統性と正当性の違いを明確化し、前者が不在であると、後者が内輪の論理になりやすいことは示唆的である。正統性は普遍的であるから、人々の間に共通理解を形成しやすい。他方、正当性は共同体や集団内での同意であって、それを超えた理解の共有が生じにくい。反面、それを用いて、外部を規定し、内部を固める。内と外の二分法に利用される。

 党規約変更にしろ、総裁選の姑息な手段にしろ、閣議決定の濫用にしろ、その正当性はL正統でしかない。そこにO正統はない。日本の治制度は立憲主義・自由主義・民主主義といった近代政治思想によってその正統性が保障されている。O正統をないがしろにするためにL正統を利用する安倍内閣は「無思想化の極限状況」の政権である。彼の支持者のネトウヨも正統性のない正当性を正当化する「無思想化」の衆だ。破壊に耽溺しているにすぎない。

 丸山はO正統なきL正統の社会を日本の文脈に即して提示している。しかし、今日、この傾向は日本に限らない。「トランプのアメリカ」もそうである。

 アメリカにはイデオロギー外交の伝統がある。合衆国は国益のために他国に干渉しない孤立主義をとりつつも、自由と民主主義の安全という公益のためには世界に関わるとする。子のイデオロギーはO正統である。この外交原理を世界に納得してもらうのは、L正統もそれに立脚していなければならない。普遍的理念との整合性に基づいて構築されるから、建設的な思想である。

 ところが、ドナルド・トランプ大統領の「アメリカ第一主義」はO正統の放棄を意味する。アメリカはL正統のみで認知行動する。しかし、O正統の拘束から解放されたL正統は無思想化してしまう。すべての思想を圧殺し、非建設的な状況をもたらす。

 トランプ大統領は従来の政権どころか、自身の過去の言動とさえも矛盾することを平然と口にする。しかも、誇張や歪曲、虚偽も多い。けれども、O正統を放棄、L正統だけでかまわないとする少なからずの国民はそれを不問にする。L正統は普遍性がないのだから、詭弁を使って都合よく正当化できる。けれども、共通理解が形成しにくいので、支持と不支持に社会は大きく分断する。大統領とその支持者は党派性の名の下に思想を圧殺し、不毛な状況を国内外に及ぼしている。「一切の『思想』を圧殺した上に成り立った」アメリカ第一主義は「疑似思想」にすぎない。

 いわゆるポピュリズムは「無思想化」である。O正統の圧殺に基づくL正統の暴走だ。そこには建設性などない。日米を含む世界各地で「無思想化」による破壊が進んでいる。この「無思想化」の政治から脱却することは急務だ。それにはO正統への認識が欠かせない。この普遍的原理に基づく正統性によって建設的な政治が復活強化される。今、政治に必要なのは思想である。
〈了〉
参照文献
竹内好編、『現代日本思想大系9 アジア主義』、筑摩書房、1963年
丸山眞男、『丸山眞男集別集第四巻 正統と異端(一)』、岩波書店、2018年
朝日弘行、「『そもそも』用法、政府が答弁書で正当化」、『毎日新聞』、2017年5月12日14時45分更新
https://mainichi.jp/articles/20170512/k00/00e/040/296000c
「『隠す』『封殺』『ゴリ押し』…安倍政権の“低レベル”な閣議決定をパターン別に分析すると?」、『週プレNEWS』、2017年6月21日
https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2017/06/21/86734/

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