はたらく傘

動くという漢字は重い力と書く。まさしく動くという字は象形文字を組合わせた会意文字で、「重いものを力で持ち上げる」というのが大元になっている。

開始から3文目、2段落目にして早くも話が脱線しますが、私はこういう言葉自体が生み出されたことについて並々ならぬ人類の叡智を感じるんです。だってちょっと考えてみてほしいんですけど、のほほんと生活していたとして、ああ今自分がとった行動は「動く」と定義づけられるんだな、とかって思わないじゃないですか。そう考えると、ある動作や感情が言語化されているというのはとんでもないことなのです。

一番最初に誕生した言葉は何だったのだろうか、という哲学を考えると発作が出そうなほど混乱しちゃいますが、でもそういうのを考えるのはとても楽しい。いまこうして何気なく「楽しい」って打ってますが、そもそも自分の中にある「楽しい」という感情に気付き、それを「楽しい」と名付けたというのは偉業以外の何物でもない。楽しいという言葉が無かったらと考えると恐怖すら覚える。先人たちがありとあらゆるものに名前を付けてくれたからこそ、我々は何ら不自由なく生活ができているわけだ。

例えばエスキモーみたいな北の国々に住まう民族の間では、雪にまつわる言葉が100個以上あるらしい。100通りに雪を名付けるということは、雪を100通りに分類できなければならない。その観察眼たるや、といった感じである。

まあちょっとこのくらいにしておいて話を元に戻しましょう。ともかく、動くという字は重いものを力で持ち上げるところにルーツがある。

では、少し派生して「働く」という字を考えてみたい。

見て分かるように、「動」に「にんべん」がくっついているのが「働く」だ。にんべんの意味はご存じのようにヒトであるから、単純に考えれば「ヒトが重いものを力で持ち上げる」となる。

ということは、「動く」に「ヒトが」という主語が足されているのが働くの解釈だ。確かに、動くといった場合は主語がヒトであろうがモノであろうが関係無しに使われる印象がある。一方で働くという場合にはたいていヒトが主語になる。

しかし、ここで少し考えてみていただきたいのだけれど、モノにも働くという言葉を使う機会ってないだろうか。

このプリンタは本当によく働いてくれたとか、我が家の洗濯機は朝早くから働いてくれているとか、要はそれなりの感情を込めたときに、モノに対しても働くって言わないだろうか。

私はこういうモノに愛情を注ぐ行為はたいへん尊いものであると考えています。人間という有機物と、モノという無機物の混じり合うその瞬間にモノはモノの範疇を逸脱し、人間に近い存在へと昇華するのだと思う。

というわけで、今回は「働く」という言葉をキーワードにして、モノに対する愛情について綴ってみたいと思う。


***

2年前くらいまで私が持っていた折りたたみ傘は、全然働かない折りたたみ傘だった。もしも彼が人間の世界で生を授かっていたとしたら、まず間違いなく怠惰とか、ものぐさとかいう言葉で言い表されていたと思う。文化祭の準備なんかでも一向に仕事をしなくて、クラスのリーダー役みたいな女子から徹底的に嫌われてそうなタイプだった。

例えばですけど、雨が降る日にカバンの中にいないんですよ、アイツ。それでいて、全然雨なんか降らない日に限ってカバンの中に入っていたりするんです。もう自分が折りたたみ傘だっていう自覚がないんじゃないかって思うくらい、必要なときに働いてくれない傘だった。

それはお前がカバンに入れなかったからだろ、傘のせいにするなとかいうヤジがとんできそうですが、そんなことを言ったらこの話はおしまいになってしまいます。あれはあくまでも傘が働かなかったのです。

もっと例示しますけど、突然バラバラっとスコールみたいな雨が降ってきたとき、急いで折りたたみ傘を開こうとしたら全然開こうとしないの。というかそもそもカバンの中の変なヒダみたいなのに引っかかってカバンから出てこないんですよ。もうこれは冬の朝とかに布団から出ようとしない人間たちと同じだぞ、とかって思ってですね、まあ開いたら開いたで今度はホネに髪の毛が挟まったりしてめちゃくちゃ苦痛な思いをする。

こんなことを書いていると、全部お前が不器用だからだろ、とかって突っ込みが入りそう。だからね、そういう興ざめするようなことは考えてはいけません。これはあくまで折りたたみ傘の側の抵抗なんです。異論は認めません。

まあともかく、これはちょっとさすがに看過できないぞ、折りたたみ傘ふぜいが持ち主に向かってなんたる振る舞いだ、と温厚な私も思いまして、折りたたみ傘に名前を付けることにしたんです。


その名も「オチョクラー」。

人間様をおちょくってくるから、そのままオチョクラーと名付けた。

で、こんな風に名前を付けてみるとたいへん不思議なことになぜか愛着が湧くんですよね。

ここでさっき書いた、モノが人間に近しい存在になるというところにつながるわけですが、もうどんどんオチョクラーが好きになっていくの。オチョクラーっていう決して名誉的とはいえない名前でもこんなに愛が芽生えるんだから、もっとかっこよかったりかわいらしい名前を付けていたらどうなっていたんだろうと空恐ろしくなる。自分が死んだとき一緒に棺桶に入れてくれ、くらいの愛に発展していそうである。

とまあこんな具合に、私はオチョクラーにかなり感情移入していくようになりました。


ここまでは多分ありがちな話だと思う。


しかしここからが狂っているところで、オチョクラー自身の感情を自分で妄想して変な恋物語を設定するという、人間としての尊厳を微塵も感じさせないような行動に私は出てしまった。改めて振り返っていると病気に近いものだったんじゃないかって思うくらいだ。

どういうことかというと、オチョクラーは雨合羽に恋しているんじゃないかっていう意味不明な仮説を私は立てたんです。


朝はまだ大丈夫だけど、午後から雨が降りそうだという予報が出るじゃないですか、で、まあそうすると必然的にオチョクラーの出番と相成るわけですが、いやちょっと待てよ、よくよく考えたら今日は屋外をあまり歩く予定じゃないな、雨が降ったとしても濡れるのは最寄り駅から家までの帰り道くらいじゃないかって思い直して、じゃあ行きはその最寄り駅まで自転車で行って、帰りは雨合羽を羽織って駅から自転車で颯爽と帰ってくればいいんだ、行きも帰りも歩くのは辛いからな、みたいに思うわけです。そうすると、じゃあ別にオチョクラーは持って行かなくてもいいや、雨合羽を持って出かけようという結論に至る。

朝出発するときに雨合羽を棚から出してカバンにしまう。そしてこの私の動作をオチョクラーは見ているわけ。で、オチョクラーは「お、今日は働かなくてもいいみたいだぞ、僥倖だ」くらいのことを思うはず。

しかし、一握りの罪悪感がオチョクラーを襲うのです。

休めると思ったのに、なぜか落ち着かないという感情にオチョクラーは気付いた。この不穏な感情の正体はいったい何なのだろうか、と思ったオチョクラーは、雨合羽のことを必要以上に意識してしまう。

そして、夜になってびしょびしょになった雨合羽が戻ってきた。その健気な姿を見て、オチョクラーは「守ってやりたい」という気持ちが自分の中に生まれていることにハッとした。


これはひょっとしたら「恋」なんじゃないか。


みたいな設定を自分で作ったんです。

そこからどんどんオチョクラーの意識が変化していく。雨合羽があんなにびしょびしょになってしまって、もしも自分が代わりに働きに出ていたらあんなことにはならなかったはずだ、と思い立ち、善良なる折りたたみ傘へと進化を遂げる。


オチョクラーは「スーパーオチョクラー」へと進化した!


もう私の折りたたみ傘はヒトをおちょくったりしない。ちゃんと必要なときにカバンの中に収納されていて、ぱっと瞬時に開くことができる。有能な傘を持つことは幸せだ。

まあそんな感じでオチョクラーは仕事に精を出すようになったわけなんですが、そうすると今度は雨合羽の出番が減ってしまう。雨合羽は雨合羽で額に汗して労働に励んでいたわけで、まあ本当は汗ではなくてただの雨水なんですけど、しかも濡れているあたしかっこいい、くらいのことを内心思っていたりして、なんだかどうにもオチョクラーのことが気に入らない。少なからず働く自分に酔っている節があったので、できれば雨の日は率先して仕事をしようと考えていた。

どうにかしてオチョクラーを元の怠惰に戻すことができないだろうか、そう考えあぐねた雨合羽は晴れの日を増やして、仕事から休む悦びをオチョクラーに植え付けるという作戦を思いついた。休みの幸せを思い出せば、元のものぐさなオチョクラーに戻るんじゃなかろうかと考えたのである。


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かくして、東京は晴天続きになった。

まあ元々冬の東京は晴れが多いんですが、その年は特に降雨が少なかった。そういう雨不足な状況とうまく絡めて設定をつくった。


オチョクラーは面白くなかった。

せっかく仕事をこなす悦びを、働く悦びを噛みしめていたのに、その機会が著しく減ってしまったわけだ。

オチョクラーは休むことの悦びを思い直すどころか、より一層働きたいという思いが日に日に増していく。勤労欲求の権化となった。


・・・

みたいにずっと薄気味悪い設定をして妄想を楽しんでいた。もっと細かく書いてもいいんですけど、すでにここまでで4000文字くらいになっているので、さすがに一旦やめにしておきます。全部書いたら1万字くらいいってしまいそうだから。ちなみに、この後はビニール傘とか長靴とかも登場して血みどろの恋愛模様が描かれる、そういう予定というか計画であった。



ところが、ある日突然、妄想に終止符が打たれることになってしまった。

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オチョクラーは骨折してしまったのです。

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あとは脱臼も。

冬が終わった後の酷使に耐えられなかったようで、あっさりとその傘生命に幕を下ろす運びとなった。傘に労災はつきものなので、残念ながら役目はおしまい。

しかし、なぜか私は胸が締め付けられる思いがした。

モノはいつか壊れる。それはヒトがいつか死んでしまうのと同じくらい自明のことなのに、分かりきっていたことなのに、ただただ胸が張り裂けそうだった。おそらくその感情は雨合羽も同じだろう。雨合羽もなんとなくオチョクラーのことを意識していましたから、悲しみもひとしおである。

骨折して脱臼して、満身創痍のオチョクラーは「まだ働ける、まだ働ける」とそう訴えてきているような感じもした。もうそこにかつて人間様をおちょくっていた折りたたみ傘の面影は皆無で、誰が見ても分かる働き者の傘だった。恋愛はこうも傘を変えてしまうものなのか。


私は彼の思いに応えることにした。

最後の一仕事として、夏の山陰旅行に同行してもらおうと考えた。大してかさばらない折りたたみ傘は旅のときに本当に重宝する。


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しかし、何が災いしたのか知らないけれど、私が行ったとき山陰はめちゃくちゃ暴風雨が吹いていた。どうやら台風が中国地方を縦断しようとしていたみたいで、完全に巻き込まれてしまったのである。これは松江の駅ビルで撮った残念すぎる画質のテレビ映像ですが、きれいに暴風域に入ろうとしていた。

もともともう満身創痍のオチョクラー。

こんな暴風にはまともに太刀打ちできるはずもなく、彼はその後結局一度も広げられることなく東京に戻ってきてしまった。


そんなこんなでオチョクラーは役目を終えたのであった。



***

冒頭でも述べたように、働くという字はもっぱらヒトを主語にして使うのだが、べつにモノにだって使うこともある。

モノとヒトの違いは何だろうか。

きっとそれは、感情を持つか持たないかの違いなんだろう。

人間は働くとき、必ず何らかの感情を伴っている。何も考えずに、まるで機械のように働いているヒトもいるかもしれないけれど、結局そうした人々だって「何も考えない」というある種の虚無という感情を抱いているといえる。感情抜きにヒトは生活できない。

しかしモノはそうじゃない。もっといえば、感情の有無に関する議論すら発生しないのだ。

でも、そんな無機物たちに対して我々ヒトが感情を与えたとき、モノはモノではなくなると思っている。私の愛用していた折りたたみ傘だって、オチョクラーという怪奇な名前を付けて変な妄想を始めてからはモノとして認識することがほとんど無くなった。働く相棒、みたいな感じになっていった。


なんだか精神不安定な人が書いたんじゃないかっていうような文章になってしまったけれど、モノに対して、ああアイツも働いているんだってみんなが思うようになれば、住みやすい世の中が実現するのかもしれないね。モノに感情移入すればするほど、毎日が楽しくなるんじゃないかと思う。

そこから大事に使おうといった発想が生まれてくれば、なおのこと良い。モノだってせっせと働いているわけだから、大切にしてやらないといけない。


みたいな適当なまとめで今回は終了にしたいと思います。毎回終盤になるとグダグダになってしまいますが、今後はどうにか改善したいと思ったり思わなかったり思ったり。

しかもよく見たら今回使ったお題ってコンテストなんだね。まあそんなの関係無しにいつも通りのペースで綴ってしまった。まあいいか。



*****

今日もオチョクラーは棚の片隅で眠っている。それは保管する、という無色透明な言い回しでは不適切だろう。もう自分が働きに出ることは無いと分かってはいつつも、働くことを夢見て眠っているのだ。



おしまい

お読みいただきありがとうございました。


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