世界はそんなに綺麗じゃない

 「フィルターバブル」なんて言葉がある。イーライ・パリサーという人が提唱した言葉で、「レコメンドシステムのアルゴリズムによって、タイムラインや検索結果に自分に心地良い情報しか表示されなくなり、世界を誤った形で認識してしまう」という現象のことだ。


 まあこれはSNSをよく使う人には周知の事実かもしれない。勝手に表示される広告や他の人の投稿を見て、「あー俺の書き込み読んでるなー」って感じることが僕にも多々ある。まあこれは「最適化と合理化」を進めてきた結果の一つなのだけど、筆者は「開かれた市民社会の形成を阻害する」ことを理由に、フィルターバブルに警鐘を鳴らしている。


 でもそもそも、「開かれた市民社会」ってなんなんだ?


 Twitterを見れば毎日のように何かが炎上していて、誰かと誰かが罵詈雑言を飛ばし合っている。ネトウヨ、パヨク、ネットフェミ、インセル…etc 呼び方は何だっていい。あらゆる人が議論とは呼ぶことすらおこがましい、ただ相手を打ち負かして幸福感を得ようとする「聖戦」を繰り広げている。

 彼らは現実世界だと交わることがなかった人たちだ。互いの存在を互いに知らぬまま生きていくこともできた。けれどインターネットが"繋げてしまった"。"誰にでも開かれているインターネット"が、交わるべきではなかった人たちを同じ舞台に上げてしまった。


 これが「開かれた市民社会」なのか?


 ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、18・19世紀のサロンとコーヒーハウスの存在を念頭に置きながら、誰でも議論に参加できる「公共圏」の復活を訴えてきた。だがその公共圏なんてどこにある?これが公共圏なのか?毎日毎日「聖戦」を繰り広げるこの場所が?

 どいつもこいつも「性善説」を前提にしかしない。彼らは他人に悪意を向けることに何の抵抗がない人間――「魔物」――の存在について何も言及していない。それが教育の失敗なのか、生育歴のせいなのかは分からない。でもどれだけ対話の姿勢を示そうとも、攻撃をし続けてくる人間が確実にいる。それも少なくない。彼らを「開かれた場所」に招き入れた結果がこの惨状なんじゃないのか?

 このまま「開いたまま」で本当にいいのか?今のような惨状が続けば、分断はさらに深まり、抱く必要がない負の感情はどんどん増えていく。「開かれた市民社会」なんてお題目を唱えるんじゃなく、「ある程度分断された社会」を設計したほうがみんな幸せなんじゃないか?

  今のままなら、インターネットは社会関係資本を害する存在でしかない。パットナムが言うような「金ぴか時代」なんて来るはずがない。



 


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