死と尊厳

 父の葬儀から約2週間が経った。

 死因不明の孤独死。たまたま親交があった母方の親戚が発見したが、既に死後一ヶ月経っていて遺体は腐敗しきっていた。

 両親が離婚して父と別離してからも、父とは仲が良かった。まだ三重に住んでいる頃はしょっちゅう家に遊びに行っていたし、当時母と上手くいっていなくて家に居場所がなかった僕は、逃げるように父にすがっていた。中学生になって遠く離れた寮暮らしになっても父とはよく電話した。特異な環境ゆえに誰にも話せなかった悩みも、父には全部話していた。父は電話越しに僕の話を聞くだけだったが、それだけで良かった。誰も受け止めてくれない感情をただ静かに受け止めてくれる。思春期の自分には充分すぎるほどだった。人生に絶望して全てを捨てそうになった時も、最終的に助けてくれたのは父だった。離婚直前の険悪な雰囲気を除けば、父とは良い思い出しかなかった。

 けれど、そんな命の恩人とも言える父の死を聞いても、悲しみらしきものは何も湧いてこなかった。報せを受けて三重に急ぐ時も、遺体安置所で、ぐちゃぐちゃに腐って真っ黒になってかすかに原型を留めている父の顔を見た時も、腐敗臭にまみれながら遺品整理した時も、火葬炉へ入っていく棺を見見送った時も、喉仏を納める時も、悲しみはなかった。

 身近な親族が亡くなった時、一体どのような態度を取るのが最適解なんだろうか?昨年母方の祖父が亡くなった時も悲しみはなかった。いや、むしろその死に美しさすら感じていた。祖父は寝たきりで話すことすらできなかった。経済的理由で葬式を挙げることもできず、たかだか二十万円の直葬プランで、世間一般から見たら立派とは言えない最期だった。ただ、子どもと孫全員に囲まれながら死を迎えたその最期は、僕からすればあまりにも美しい死だった。本人がどう思っていたかは知らないが、僕にとっては全部美しかった。

 はたして、父親はどうだっただろうか?父親の死は美しかっただろうか?分からない。少なくとも祖父が死んだ時と同じものは感じなかった。かつて父だったモノを燃やして処理したという感覚しかなかった。それは僕が唯物論者寄りの人間だからなのか、心のどこかで父の死を覚悟していたからなのか。いずれにせよ、父の死そのものにあまり意味は感じなかった。

 その反面、生きていた時の父との思い出はとても鮮やかに心に焼き付いている。寺でお経をあげてもらっているとき、少しは悲しくなるかと父との思い出を思い出してみたが、温かい気持ちしか湧き上がってこなかった。父との思い出が僕という人間を形作っているという確信だけがそこにはあった。

 「死んだ人の意志を受け継ぐ」なんてものは、残された人間の勝手な思いでしかない。ただその勝手な思いが、残された人間の心に意識的にも無意識にもはたらきかけ、またその人が他の人の心にはたらきかけるという、連鎖とも枷とも言える現象を鑑みる時、人の営みの美しさ、命の輝きを感じられずにはいられない。

  
 十分だ。その命の輝きだけでも。

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