承認を求める終わりなき闘争と、その向こう側


学校生活、受験、就職、恋愛 ...

人生や社会の至るところでマウンティングが行われている。

マウンティングを行っている当人はそれが悪いことだとは思わず、矮小な優越感のために日々マウンティングを繰り返す。だが彼らは気づいていない。優越感に浸り、自らを勝者と思いながら、その実彼らは終わりなき闘争の奴隷となっていることを。


自己承認

 自己承認という言葉が多用される今日において、その言葉の意味は「認めてもらいたい欲求」のようなものに成り下がりつつあるが、実際のところ自己承認とは個人のアイデンティティに直結するものであり、いわば「自分が今ここにいる理由」であり、人生を左右するもの。そして私たちは必ず何かから常に承認を得てアイデンティティを形成している。

 しかし「承認欲求が~」と口にしながらも、多くの人は「今自分がどこから承認を得ているか」ということには無頓着だ。そして承認を得る方法は綺麗なものだけじゃない。他人を傷つけ、見下すことによって得られる承認もある。その代表がマウンティングだ。


終わりなき闘争

 マウンティングの醜さは道徳的な観点によるものだけではない。

 マウンティングは自身より下位と思われる人間に自身の優位性を見せつける優越感によって承認を得る行為だ。よってマウンティングには常に「下位者」の存在を必要とする。年収1000万円であることを誇れるのは、年収300万円の人々が大量にいるから。慶応生であることを誇れるのは、慶応に入りたくても入れなかった多くのMARCH生がいるからだ。

 だけど下位者がいるということは、自身も下位者になる可能性があるということだ。年収1000万円であることは、年収2000万円の人々がたくさんいる中では「負け」でしかない。

 年収、学歴、社名、役職、モテ… マウンティングを行う人々が承認を得る源泉としているものは、全て相対的かつオルタナティブなものである。つまり代替可能なもの、「いつ取って代わられるか分からない」ものだ。そしてマウンティングを承認を得る糧としている人間は、いつ自分が下位者になるか分からない、いつ自分が取って代わられるか分からない恐怖に怯えながら生きていくしかない。そう、彼らは走るしかない。走り続けることでしかオルタナティブな自己を保つしかない。そして絶対に満たされることがない終わりなき闘争に突入する。

 マウンティングを行う者は自身を勝者だと思っているが、マウンティングを行うこと自体終わりなき闘争への参加表明に他ならない。

 確かに、常に勝者のまま人生を終えられるのなら問題ない。しかしほとんどの人間にとっては無理であり、終わりなき闘争の序列の中に留まりながら敗者となる。また運良く敗者にならなかった場合でも、避けられない老いによって社会の一線から退くことを余儀なくされる。そしてマウンティングによって自己を保ってきた人間はその時になって初めて気がつく。自身の手に何も残ってないことを。

 彼らは空いてしまったアイデンティティの穴を埋めるため、あらゆる手段を使って承認を取り戻そうとする。そして終わりなき闘争は承認を求める暴走へと発展する。


承認を求める暴走

 哀れにも、下位者を規定することでしか自己を保てなかった人間の多くは、自身のアイデンティティと向き合うこともせず、醜態を晒しながらあらゆる手段を使って承認を得ようとする。

1. 年功序列の利用

 年功序列の思想が未だに根強い日本社会では、年齢が上というだけで影響力を持つ。哀れな人々はその構造を存分に活用し、自分より若い人々に対して傍若無人な行いを繰り返すことで承認を得る。若い人々は彼らを「老害」として嫌悪するが、当の本人は「歳上だから敬われる」という謎の幻想に浸りながら、独り寂しく死んでいく。

2. 過去の栄光にすがる

 大抵年功序列の利用と共に行われる。自身が若かったころに成し遂げたことについて、真偽もあやふやなまま誇らしげに延々と周囲の人々に語り続ける。そして若い人々は大抵その話に付き合わされる。しかし前に進むのを止めた人間に待っているのは虚無しかない。

3.  成功者になろうとする

 起業や投資など、「経済的な成功」をおさめて承認を取り戻そうとする人間もいる。しかしビジョンも計画もなく、自身の承認を満たすためだけの起業や投資が成功はずもなく、結局彼らは分かりやすい「儲け話」に飛びつき、情弱ビジネスを展開する人々の食い物にされる。残るのは破綻した人間関係と経済資本だけ。

4.  他人を貶める

 マウンティングの味を忘れられない人々の一部は、他人の名誉や尊厳を傷つけることで承認を得ようとする。暴行、痴漢、インターネット上での誹謗中傷。他人の存在を自己承認を得るためだけの「コンテンツ」としてしか見なさい彼らは、もはや人ならざる魔物でしかない。

5.  「大きなもの」の一部になろうとする

 自分自身や周囲の存在だけで自己を保てなくなった人々は、何かしら「大きなもの」の一部でアイデンティティを回復しようとする。神、ナショナリズム、反体制、社会運動 … 形は様々あれど、彼らは「超越的なもの」に交わる。

 確かにこれらの「大きなもの」は悪いものではない。多くの宗教団体が貧困者をサポートしているし、ナショナリズムは経済成長の柱になり、リベラルは女性やマイノリティの権利を勝ち取ってきた。しかし承認を求める闘争の奴隷である彼らには大義が無い。いや、むしろ先人たちが積み上げてきた大義を自らの人生の失敗の埋め合わせに使い、その大義を蔑ろにしている。

 彼らに「アウフヘーベン」などという概念はない。複雑なこの世界を「我々」と「敵」という単純な構造に矮小化し、「聖戦」によって敵を打ち負かすことで自分たちは救われると思っている。


ノンオルタナティブなものへの回帰

 悲しいことに、この世界ではオルタナティブな承認を得ることが奨励されているし、どんな人間でも少しでも気を緩めると終わりなき闘争へと引きずり込まれる。

 だからこそ、私たちは常に「今自分が何から承認を得ているか」気に払う必要がある。そして終わりなき闘争を終えるためには、オルタナティブではない、家族や地域社会、恋人や友人などのゲマインシャフトで得られる承認や、世間の序列を無視した「情熱」から得られる承認などの、絶対的で代替不可能なノンオルタナティブなものを得るしかない。

  そしてノンオルタナティブなものは一朝一夕で手に入るものではなく、日々の生活や、他者や社会へのコミットメントの積み重ねによってしか得られない。

 



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