子どもの終わり

子供部屋おじさんという言葉が定着するほど、親元から離れることが当たり前ではなくなった今日に、僕は家を出ること決めました。

たまたま恋人ができて、同棲したいってなって、まあどこにでもある普通の理由です。世間ではおそらくこれを「人生を前に進めた」と言うんでしょうか。僕は世間の人がよく分からないんですが、こういう時はとにかく前を向いて明るい気持ちで進むべきなんでしょうか。後ろを振り返るということは皆さんあんまりしないんでしょうか。

僕はどうしても、一人残される母のことを考えてしまいます。

今までは学校や職場、住む場所が変わっても、「帰る家」は変わりませんでした。まあ色々はありましたが、そこには必ず家族がいて、子どもの時から連続した時間と空間がそこにありました。それを自分の手で終わらせるということが、部屋に詰まれるダンボールが増えるにつれて、少しの恐怖感というか、気持ち悪さが込み上げてきました。

僕にとっては新しい門出、新しい始まりであっても、母にとっては一つの終わりです。ずっと共有してきた時間と空間を断つことは、親との繋がりを一つ断つことに変わりありません。僕はどうしてもそこに母を捨てて置いていくような気持ちを見出してしまうのです。

ニヒリズムにハマってしまってからは、よくも悪くも人生の終わりを常に見つめるようになってしまいました。離婚して遠方に住む父と会う時も、毎回これが最後かもしれないと思って会っていたおかげか、亡くなった時もあまり悲しみはありませんでした。ですが父が亡くなってからはより強く母の人生の終わりを意識することになりました。

死に向かって老いていく中でも、尊厳だけは失ってほしくない。その思いから、学びの楽しさを知ってこれからの生きる糧にしてほしくて、一緒に放送大学に入学して勉強しようと持ちかけました。一緒のシラバスを見て、来期にどんな講義を取るか話し合って、何を学んだか共有する時間は、短いながらもとても良かったと思います。多分このままずっとこれを続けていても幸せになれたのではないかと思います。わざわざこの時間を断ち切る必要はないのではないかと思いました。

ただ自分は他の幸せも見つけてしまいました。親に本当のことを話せていない自分にとっては、二者択一にしかなりえませんでした。老いていく母と過ごす時間と恋人と過ごす時間、どちらが重要なのか時間をかけて悩みましたが、僕が母から離れる、そして母が僕から離れる時間がついに来たんだなと確信し、家を出ることを決めました。

母にとっては本当の意味で子育てが終わるのでしょう。ここから先は老いていく一方であり、できることも少なくなっていきます。僕が母と会う回数は次第に減っていくでしょう。人生で会うのは残り100回を切っているかもしれません。その孤独の中ではたして正気を保てるものなのでしょうか。はたして僕が母と過ごしたこの二十数年は、母の尊厳になり得るものなんでしょうか。人生の終わりの時に、一緒に過ごしたこの時間に価値があったと思ってくれるのでしょうか。

残念ながら分かりません。母も他人なので。ただまあ最後まで僕にとって変わらず強い母であってほしいなと願うばかりですし、僕にできる限りのことをしていくしかありません。僕は性的指向的に親になる可能性はかなり低く、親の気持ちが分かるようになることはないかもしれませんが、僕が人生を楽しむことが母にとっての幸せなのかもしれません。もしそうならとにかく前に進むしかありません。

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