神を殺した話 後書き:Always Look on the Bright Side of Life

 このnoteで書いてきたように、僕は一度世界に絶望した。そして神に救われ、自分でその神を殺し、神の代わりを探し求めた末、この世界に絶対的な救いも、そして意味すらないことを知った。我々はどこからも来てないし、何者にもなれないし、どこへも行かない。意識という霞みたいなものがただ世界をただよっているだけでしかない。

 結局僕たちはハンマーが振り下ろされるのを待っているだけ。どんな努力や富を重ねようと、終わる時は一瞬で終わるし、慈悲の女神なんて来てくれやしない。それが世界の狂気。

 その空虚さに打ちひしがれて、自ら舞台を降りるのも正しい選択の一つ。僕だって何度もそうしようとした。だからそれを選ぼうとしている人たちを僕は止められない。生きているのも死んでいるのもあまり変わりはないのだから。

 じゃあなぜ僕は生きているのか?なぜこの世界から降りないのか?確かに、本質的に言えば生きている理由なんてない。でも僕は幸運なことに、たくさんの人から色んなものを手渡された。愛を、知識を、願いを、生きる勇気を。家族から、友人から、先生から、上司から、ほんの一瞬しか会ったことがない人たちから。そしていなくなった人たちの声にならない思いが、未だに僕にのしかかっている。そうやって僕がたくさん受け取ったものを、同じように他の人に手渡していきたい。

 もちろんそれだって意味なんてない。もはや言語ゲーム的なものだ。ただ自分がそうされてきたから、同じように他の人にするだけ。まあそうしていくうちに何かに繋がるんじゃないかって思うこともあるけど、それも僕のただの思い込みでしかない。そしてもう一つは、ニヒリズムの先にあるものを見てみたいということ。ニヒリズムに唯一対抗できる愛と情熱を持って、まだ誰も見たことがない世界を見てみたいという好奇心が、僕を生かす糧となっている。

 愛と情熱こそ、死してもなお残る、ニヒリズムに打ち勝てるもの。経済資本も社会的地位もオルタナティブなものでしかなく、死んだら全て消え去るけど、僕が色んな人から受けた愛を、そのまま他人に手渡し、それが受け継がれていけばそれは消えない。僕が得た情熱や知識も、世界を変えることはできなくても、誰か一人の支えになってくれればそれは受け継がれていって、消えることはない。どうせいつか死ぬんだったら、そういう代替のきかない、オルタナティブではないもののために生きたい。

 そして姉妹なる死を迎え入れる時、その場所が温かいベッドの上なのか、誰もいない暗闇の中なのか、はたまた処刑台の上なのか、分からないけど、たとえどんな場所であっても僕は声高に叫んでやる。「俺は生き残ってやった。このクソッタレな世界を」と。

 世界はクソッタレで、人生も死もジョークでしかない。だからこそ意味のない人生を"あえて"生き延び、意味のない死を"あえて"輝かしいものにした時こそ、一人の人間が世界の狂気を打ち壊す瞬間になる。

 だからその時まで、なんとしてでも生き抜いて、生き抜いていく。ニヒリズムを超え、おびただしい屍を越えて、世界の狂気に抗いながら。人生の明るい部分だけを見て歩くことはできないけど、できるだけ口笛を吹いて歩いていく。

 

 僕を愛してくれた人たちのために。いなくなった人たちのために。まだ誰も見たことがない世界を見に行くために。

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