新車と普通の人生

 新車を買うという、まあよくあるイベントがうちでも起きました。

 母と兄は自動運転搭載の新車にかなり興奮してたんですが、僕はというとなんか自分の家族に起きたことだとはあんまり思えなかったというか、すごく変な感じしたんですよね。

 さっきも言ったように、新車買うって別に全然普通のことなんですが、僕の中ではなんというか、「普通の家族の象徴」みたいな大仰なものにいつの間にかなっていて、そんなものがまさか自分の人生に入ってくるとは思ってなかったんですよ。だから違和感を感じたんですよね。

 よく考えると、現状本当に普通の人生送れてるんですよ。母子家庭だし、僕は大学半年留年してしまったけど、家族3人は仲良いし、僕は入りたかった会社に入って好きな仕事してるし、兄は着実に研究実績積んでるし、母親は仕事も資格勉強も頑張ってるし、気持ち悪いくらいに順調です。そうです、気持ち悪いんですよ。幸せな生活送ってるはずなのに、自分に起きていることだと感じないような気が、自分の人生じゃないような気が薄っすらするんです。

 神学校と半ば収容所と化した高校で人生終わりそうになって、「ただ当たり前の日常が欲しい」と毎日死ぬほど願っていたあの頃のことを考えると、その当たり前が手に入ってしまった今の日々は変な感じしかしないというか、あの頃の自分と今の自分が果たして本当に連続しているのかさえ分からなくなってきます。一応今は幸せだと認識できてはいるんですけど、あの頃の絶望が自分の価値観や世界に対する認識を全てぶち壊してしまったせいで、「リアリティ」というものがよく分からなくなっています。

 絶望から抜け出して全て手に入れてしまえば元通りになるかな~と思ってたし、実際あの頃の記憶は半分くらい消えてる(消したのかもしれない)んですが、まあ一度おかしくなってしまった認識はそうそう変わるものじゃないんですね。

 今でも何気ない時にふっと浮かび上がっちゃうんですよね。「自分は本当に幸せになっていいのか」って。自分はあそこから脱出して、一応幸せになったらしいけど、あの頃あそこにいた人たちの半分くらいは「社会のゴミ」扱いされて、「いないこと」にされていると思うんですよね。いやまあ勝手な憶測だし、本人たちにはマジで失礼以外の何ものでもないんですが、「大方そうなるであろう」状況でした。それで社会見渡すと同じような人がたくさんいて、本当に絶望感しかなくて、その影がちらつくたびに自分の幸せに対して背徳感を感じてしまって、「幸せになっちゃいけない」みたいな気持ちが浮き上がってくるんですよね。

 それを何とかするために、そして「終わった人生」から戻ってきた自分の存在意義を確かめるために、世の中を良くしようとして神父をもう一度目指したんですけど、それもやめちゃって、あの頃の世界に対する思いとか熱意とか、そういうもの全部鳴りを潜めちゃって、今は自分の好きなことだけしてるんですよね。いやまあ確かに世の中が良くなるものを作りたくて今の会社には入りましたけど、結局は好奇心ベースというか、自分の「快」のために生きています。どうしてそうなっちゃったんでしょうね。

 今はもうあの頃みたいに「神と教会の威光のもとに一人でも多くの人を救済する」なんて夢持てないので、今後はちぐはぐな幸せを享受しながら、自分の手の届く範囲で少しずつ世の中が良くなるように頑張るしかないんだと思います。それで十分なのかもしれませんが。



 

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