「型」をなくす練習

いいとか悪いとかではないのだが、最近もっぱらSNSの投稿が減って自分が世界に対して無口になってきたという自覚がある。このnoteもできるだけ何か考えて発信したいという気持ちだけが募ってはじめたのだけど、今のところ記事を書くのも月1くらいのペースである。

「ライブ」という目に見えた人前に出る活動をお休みして、約4ヶ月が経った。ライブという一つの表現活動、ルーティーンをなくす決断に至ったのは、コロナで思うようにやりづらくなったという外因的な理由もあるけれど、根っこにあるのは「曲が作れてなかった」という自分の問題も大きい。

去年の春頃からコロナによって世の中が大きく変化してきたが、その当初はその変化を客観的に見てその体験したことのない状況や心境を創作に活かすこともできたし、コロナ禍で生まれた曲なんかもいくつかある。そのため、この世界がこうなったからといって曲が作れない理由にも活動できない理由にもならないと思う。
けれど去年の暮れとか今年の初めとかそのくらいには、私の中でライブ活動や創作がしんどいと思うようになってきていた。そしてその気持ちのまま納得する曲も生まれないでやっている活動がとても苦しかったのも、今だから言えることだ。

なぜ今までできていたことができなくなってしまったんだろうとも思った。だがそれは別に私だけではなく偉大な創作家や有名な音楽家だってスケールやレベルは違えど多くの人が同じような経験をしているようだ。以前から何年も活動してきて曲が書けなくなることなんて私は何度もあったし、その時も活動をお休みして違うことをしていた。文章で言えば以前はブログを書いていたこともあったがそれもいつしか書くのが気分ではなくなり自然消滅した。
だから今回の言うなればプチスランプのような状態だって別に珍しくない。ただ、そうゆうときいつも私は何もせず時が経つのを待つのが常だったが、また今回も何もしないで自分を待ってるのもなという感じなので、何か自分なりに試行錯誤したいと思い、改めて「書く」という行為やそのモチベーションについて考えてみようと思った。

例えばtwitterに関して言えば、前はあんなに長文で無駄に書き殴ったりしてたのに最近めっきり何も呟けなくなった。というか、呟きたいと思うことがあまりないな、と思うことが増えた。何も呟かないのもなんなので、生存アピールのためにその日食べたご飯を写真でちょこちょこアップしたりしてるが、自分であげておいてこれ誰得なんだと思ったりしている。でも毎回いいねなどしてくれる人がいてなんだか少し満たされたりする。

前はライブ活動とかYoutubeの更新とかがあればtwitterで告知することがあったが、今は何もしておらず前よりもさらに一般人なので、こんな私がつぶやいても、、という気持ちもどこかにあると思う。前に活動休止してた時もtwitterは動かずほぼ死んでいた。最近タイムラインのみんなの活動も違う世界のものに見えてくるようになったし、フォローするアカウントもなんか趣が変わってきた。twitterは神楽サティという音楽活動の名前でやっているが、なんかそうではないアカウントみたいになってきているかもしれない。

noteに関して言えば、最初の自己紹介でも少し書いたように、ライブ活動を休むと決めたときに新しくはじめたかったことの一つが「長い文章を書く」ことだったので、むしろ自らモチベーションを持ってはじめたことだった。そして、これは今でも取り組みたいと思っているので常日頃からnoteを書くネタを探しつつ、ネタにする候補みたいなものを箇条書きにしているのだが、その時なんとなく気がついたことがある。

「あ、これ私の曲の作り方に似ているな」

実は私が曲を作る時もこの「テーマ」探しから始まる。今まで作ってきた曲も、例外はいくつかあれどほとんどが「テーマ」や「タイトル」を決めて、それに向かってあらゆる要素を集めたり構成したりしながら作ってきた。

最初に曲を作りはじめたときに色々手探りをして、そのやり方がなんとなく私にとって作りやすいと思って、いつの間にやらそれが自分のフォーマットというか固定の曲作りの方法になっていた。そして、こうした文章を書くときにも、気がついたら同じような手法で書こうとしていたのだ。


そして、このようにテーマを集めたはいいがそこから書き出そうとして詰まってしまうことが多く、これは私が曲作りに行き詰まりを感じてきていた状況と全く同じだった。

私の中で曲における「タイトル」というのはなんとなくその人のこだわりやセンスが強く出る部分であり、それは曲に限らず何かの作品や文章のタイトルだってそうだと思っている。いわゆる「サムネ」みたいなもので、下手したらそのタイトルを見ただけで作品を読んだり鑑賞する前に人が離れてしまう場合もあると思うので、私の中でこのタイトルやテーマが重要だと思っていることに変わりはないのだが、あまりにも私はここに囚われすぎて、もはやここから先に踏み出せない状態に陥ってしまっているとも思った。

本来ならタイトルなんて後付けでもいいはずだし、なんとなくのテーマがあったところでそれに沿った作品のタイトルは後でいかようにもしていいはずなのだけれど、私自身長年のクセであるのか、最初から「これぞ」というタイトルを文章を書くときにも考えようとしてしまうところがあって、そんな自分の暗黙のルールに自分で苦しめられているような気がしてきた。


とりあえず、今私に必要な練習は、この不自由な「型」を崩して色々なやり方でものを書いたり曲を作ろうと試してみることだと感じている。twitterだって、どこか「私がつぶやく意味」みたいなものを考えて、何も呟けなくなっているところがあったのだが、別にこれからも堂々とご飯の写真付きツイートをすればいいかなとも思うことにする。病んできたら意味不明な哲学的な考察もすると思う。愚痴も言うと思う。それはこのnoteも然り。

常に表現者でありたいなとは思うけど、あまり統一性とか作品性とか見栄えとか、自分のイメージとか周りからの評価とか気にしすぎると、このまま何も表現しないで人生が終わるんじゃないかと、最近この歳になって少し感じるようになった。時間は有限だなとも思うようになった。自分には才能がないからこそ少しでもよく見せたい、みたいな考えが今まで働いていたけれども、そうゆうものをできるだけ取っ払って、どんどん失敗作を世に出していくことが今自分に必要な過程である気がしている。


twitterもnoteも、そして曲も、私の未熟さや至らなさやセンスのなさが浮き彫りになって、数年後みて自分ですごく恥ずかしくなるものばかりだと思う。だけどそんなむき出しの表現を通して人はなんとなく前に進んでくのでいいのではないか。お腹すいたーとか眠いーとかだけ呟くtwitterの人が苦手だったけど、それくらいがちょうどいいのかも。

これからはあまり気にせず、型をできるだけ意識しないように言葉を放出する意識をしたい(また真面目)ので、そんな感じでよろしくね。


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