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非構図論的構図論 ~主観的構図法の提案(?)~

皆さんこんにちは。さとぅです。

今回は構図について書いていこうと思うのですが、三分割などについてはすでにたくさんいい記事があると思いますのでそちらにお譲りして、別の視点から論考・主観的構図法というものを提案してみようと思います。

実際、「この構図にしなきゃダメ!」と思って撮影している方はほとんどいないと思うので、皆さん既にやられていることを文章化しているだけなのかもしれません。。。

長い文章になったので要約しますと

三分割など既知の構図を選択的に使用する公式的構図法では(可能性がすべて網羅されない限りは)局所解にとどまり、最適解を設定できない可能性・また公式を前提的に使用するため公式自体の誤りに気づかない可能性がある。そこで自身の主観評価によって構図を設定する主観構図法を提案する。

んまぁこんな感じです。

先に書いておきますが僕がここで提唱している主観的構図法は、僕自身真に理想的な意味での実践がきているものではないですし、ただの論の段階です

興味のある方はぜひお付き合いください<(_ _)>

形式化された公式的構図

構図を挙げてくださいといわれると三分割構図・三角形・黄金比・額縁等いろいろ思い浮かぶと思います。さらに名称だけにとどまらずに”三分割は交差点にポイントを置く”や”画面に動きを出すには対角線構図がいい”など、個々の構図にはそれぞれ当てはめるべき条件・意図的なものも付随されていることにも気づかされます。

このようないわば名前が付けれられ、当てはめるべき条件が付随されたような「公式的構図法」は、『○○構図は良い。この写真は○○構図である。よってこの写真は良い。』または『○○構図は動的である。この写真は○○構図である。よってこの写真は動的である。』というような演繹的な論で支えられています。

撮影者はこの前提に立って構図を用いることで収まりのいい絵または構図自体の意図を持った写真を撮ることができます。この方法は知っていることによって初心者から上級者問わず利用できる、いわば開かれた共通知識であり、実際、現代の写真家のほとんどが利用しています。

しかし、果たしてこれは本当に構図を決定する最適な方法なのでしょうか?

公式的構図法の限界

公式的構図は先ほど書いたようにこれまで良いとされてきたものを用いるのでそれを用いた構図は良いものになるという演繹的アプローチで成り立っています。撮影時では目の前の空間に対して自分が知っている構図の中で最適と思われるものを当てはめるという操作が行われていることになります。しかし、このような既知の構図から最適と思われるものを当てはめる公式的構図法では真の最適解が前提的に破棄されている可能性があると考えます。言い換えると、公式的構図法においては公式が対応しうる範囲に限界が存在し、その外にある解は採用しえない可能性があるのです。

ラーメンで例えるなら、ある麺があった時にスープを豚骨にするか醤油にするか、はたまた煮干しにするのかを選べるような状況です。料理人は麺の特性や自身の好みを信じて最適と思われるものを選ぶことになります。ちぢれ麺なら味噌・細麺なら博多豚骨といった具合に。実際、大きく判断を誤らなければ、自分で組み合わせたラーメンは結構おいしくなるでしょう。しかし、この方法ではこれまでは存在しなかった本当は一番おいしいかもしれないスープXの選択は無意識のうちに破棄されている可能性があります。

最適解Xを公式的構図においてカバーするためには自身が知っている既成の公式の数、公式とする構図の種類の両方を無限に増やす必要があります。しかし、それには限度がありますし不可能であることは自明です。このように公式的構図法においてはその限界により、最良の解が排除されることを『最適解の破棄』とします。

公式的構図法の問題点

公式的構図には問題も存在しています。それは、公式的構図は”公式”自体が美しいものという盲目的信仰の上で成り立っているために使用者はそれ自体を疑うことがないという点です。前提とする公式が実際は美しくない場合、それに当てはめた、いかなる事象も適切でなくなってしまう可能性があります。

前提が崩れる(かもしれない)例として黄金比を取り上げてみます。私も黄金比は普遍的に美しいと勝手に思ってしまっていますが本当にそうでしょうか?自然の造形が黄金比に沿っていたりパルテノン神殿は黄金比に近かったりとどこか説得力があるようにも感じますが......

黄金比について調べていてこんな研究をみつけました

好みの長方形の縦横比に関する日本欧米比較研究

この研究では長方形の比の好みを欧米・日本で比較したものですが、この研究の結果には

欧米では条件によって黄金比に好みのピークが出る場合とそうでない場合が混在し,先行研究と同様に条件によって結果が変わる弱い好みである結果が得られた.日本の場合については 4 通りの場合全てに於いて正方形が最も好まれ,且つ細長くない長方形が好まれる事が分かった.即ち, 4 通りに関しては条件によらず安定して正方形が好まれる結果が得られた.その一方で特定の地域に於いて参加者数十人程度の場合に着目すると,日本全体とは異なる結果が得られる場合がある事も分かった.

と記されています。(複数の研究結果を参照することが望ましいですが)この研究では少なくとも日本人においては黄金比が最も好まれることは否定されていますし、欧米においてまた先行研究においても黄金比の好みは弱くあるとされています。

黄金比の構図は黄金比が美しいという前提のもとで成り立っていますので、黄金比が美しくない(かも)とされてしまうと公式的構図の目的である美であるものに当てはめることで結果も美とすることは達成できなくなります。これは黄金比に限ったことではなく三分割や対角線といった他の物についても起こりうるものではないでしょうか。

このような公式的構図の公式自体の問題を前提の揺らぎと定義します。

主観的構図法が最適解を得る可能性

これらの最適解の破棄・前提の揺らぎに対する解決法として主観的構図法を提案します。

主観的構図法とは撮影者が(理想的には既成の構図の概念を全く用いることなく)主観的判断だけを使用して構図を作ることを言います。

以下では主観的構図法が最適解を得る場合を条件を分けて考察してみます。

※この章では大前提として主観的判断が真の判断でありかつその範囲が公式的構図の与える範囲より大きいものとしています

①公式的構図の解=主観的構図法の解=最適解となる場合

そもそも、公式的構図法の前提としている公式の美が普遍的であるのであれば、それは公式の中に限らず各個人においても共通であるはずです。ですので、ある状況に対しての最適解が公式の範囲内にある場合は、主観において最適と判断されたものは公式と必然的に一致します。この場合は公式的構図法・主観的構図法の双方が同じ解(最適解)を得るため両者に差異は生じません。

②主観的構図法のみが最適解を得る場合

では、最適解が公式の中にない場合はどうでしょうか。このような場合公式的構図は既知の構図の中で最も最適なものつまり局所解与えるにとどまります。しかし、主観的構図では主観の内において最適な解を導きますので、主観の判断の範囲が公式的構図の範囲より大きい場合については、公式的構図よりも適正のある最適解を与え得る可能性があります。

③公式的構図法が偽の最適解をとる場合

最後に前提の揺らぎがある場合について考えます。前提の揺らぎは公式として用いる構図自体の美が真でないまた過大評価されることによって生じます。この状況では公式的構図では、他の構図に対して適正度の低い構図が実態以上に評価され局所解として採用されてしまう可能性があります。しかし、(理想的)主観的構図法では自身の主観において判断を行うため偽の最適解を採用することはまずありません。ですので真の最適解が公式的構図の範囲内にある場合、また範囲外である場合においても最適解を採用することができるはずです。

ここまで主観的構図法の可能性を紹介してきましたが、この手法には公式的構図法と同様に限界・問題があります。

主観的構図法の限界と保持される優位性

公式的構図法では公式の対象とする範囲において限界が存在しましたが、主観的構図法の場合、主観の属する個人の発想の広がりに限界が存在しています。主観的構図法が常に公式的構図法に対して優位にある(最適解を採用しうる)ためには、公式的構図法より範囲が広くある必要がありますが、事実そこには強化される壁が存在します。主観的構図法の定義で

主観的構図法とは撮影者が(理想的には既成の構図の概念を全く用いることなく)主観的判断だけを使用して構図を作ること

としましたが、この「理想的には...」という点が問題です。写真をしていてインプットを完全に省くということはまず不可能ですので、日々、公式的構図の作品を目にすることになります。その結果として主観評価自体が公式的構図に最終的には同質化してしまう可能性があります。つまり、に主観において構図を設定しても既知の構図に縛られることになり最適解を導けなくなる可能性があるのです。

ただ、もし主観の範囲が公式の範囲と同質化してしまったとしてもさほど問題にはなりません。というのも完全に同質化して範囲を共通としている場合に於いては主観的構図も公式的構図法も(最適解は導けないにしても)同様の局所解を導けるからです。

この状態では両者で解は共有されますがプロセスが異なります。公式的構図法は『○○構図は良い。この写真は○○構図である。よってこの写真は良い。』とするのに対して、主観的構図法は『この構図は良い。結果○○構図だった』というようになります。主観的構図法に於いては結果○○構図になったとしてもその○○構図自体に根拠と意義はありません。

また、前提の揺らぎに対しては主観的判断により偽の最適解を棄却できる可能性があるため公式の与える範囲内において真の最適解(局所解)を採用でき、この点に於いては有意性を保持している可能性があります。

主観的構図法の問題点

主観的構図法の問題点としては主観により良いとしたものが他(受け手)に対して常に同一の判断をもたらすとは限らないことが挙げられます。公式的構図は、公式を本当は真ではない可能性があるにもかかわらず盲目的に評価している可能性があること(前提の揺らぎ)を指摘しましたが、この逆の様なことが主観的構図法においては起こり得ます。主観の偏った好みによってある部分が過大に評価されて最適解として採用されてしまうケースです。このように、主観的構図法は主観の判断が真であるまたは(真に近い)という前提の基に成り立っているために、この前提があまりに崩れてしまうと全く成り立たなくなる可能性もはらんでいます。

理想像の強化とジレンマ

主観的構図法において最適解を得るには理想的(普遍的?)美に近い判断基準を持ちかつその範囲は公式が持つものよりも広くなる必要があります。目標が普遍的であれば問題はありませんが、ある集団において共有された価値観での理想像が目標である場合は、まず、偽の解を導く原因となる主観的判断の偏りを是正する必要があります。つまりそれらの系譜を持つ作品のインプットが必要になります。そうするとどうなるかというと、理想的判断の形成と同時に主観的構図法の限界で述べた強化される壁を作り上げてしまうことになります。このように考えると主観的構図法は、理想的には存在できても実際は、成立しえないもしくは非常に難しいのかもしれません。

まとめ

この記事では公式的構図法の限界を指摘し、主観的構図法を新たに提案してみたわけですが冒頭でも書いたように実際これって(ここで述べた真に理想的形ではないにせよ)皆さん既にやられていることだと思うんです。ピーカンの時は極端に空を少なくしてみたり、思いがけずレンズを向けて撮影してみたりと。

ただどこかでやはり無意識的に既知の概念に縛られているような感じがして考えてみた次第です。この記事を読んで新しい視点とかが見えてくる人がいてくれたら嬉しいなと。(自分の思想を整理したかったっていうのが一番大きいですが、それは内緒です←)

現像もそうだと思う(自身そうしてきた)のですが「これって良いといわれているよね。やっとこう」だと本来いいかわからないにもかかわらず、核心には触れることなく表面をただなぞるように、自分の所属しているジャンルというかコンテクストというか思想の様なものの中でいいとされているものを作り出しているだけなのではと思いまして。。。

ここでまた、「自分が良いとしたものって他者に対しても良いとしていいのか」とか、「受け手の所属によって理想像とかって異なるよな」とか新たに疑問が生じるわけですが。。。

5000字も超えてきたのでこの辺でしめましょう。こんなに長々と書いてきて結論がかなり投げやりではありますが

やっぱり好きなように撮る。これが一番だと思います。

ではまた(^^)/

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