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店が潰れてコロナ禍の猛威を知った話

以前、「ウンコしたくなる店に彼女を連れ込んでみた」という記事を書いた。

俺は渋谷で不思議な飲食店を発見した。何度もそこに足を運ぶうちに、なぜか毎回ウンコしたくなることに気づいたのだ。

何を言っているのかわからないかもしれないが、事実、そうだったのである。

ただなんとなくウンコしたくなるわけではない。そこで飯を食うと数十分後に強烈な便意を催し、たちまちトイレに駆け込みたくなるのだ。

というわけで、俺は一計を案じた。

ここに何も知らない彼女を連れ込めば、不意の下痢を引き起こせる。そう期待して、ゲームを楽しんだわけだ。

初回のそのゲームの顛末は、当該記事に譲るとして、その後も何度か同じゲームで遊んだ。

しかし、久しぶりにそこに立ち寄るとどうしたものか。ウンコしたくなる例の店があったはずのビルの一角には、別の飲食店が入っていた。

コロナの猛威だろう。ウンコしたくなる例の店は、閉店したのだ。

有限の胃袋の奪い合い。

コロナ前の平時を考えてみよう。もはやそれを「平時」と捉えていいのか疑問なくらいコロナも長引いたものだが、とりあえず当時を思い出してほしい。

人口の変動がなければ、人間の胃袋は一定である。一定というのは、胃袋の絶対数についても、容量についてもそうだ。1年や2年で急に人口が急増することもなければ、人口の何割かが突然大食いに変貌することもない。

また、食事などに支出する人の懐事情も、全体ではそう大きく増減するものではない。歴史的な景気の変動がなければ、可処分所得は1年やそこらで急に倍増したり半減したりすることはない。

一定の胃袋は、ある割合で外食によって満たされ、財布の中身もまた、ある割合で外食に向けられる。

要するに、飲食業界は常に有限の胃袋と財布の中身の奪い合いとなる。飲食店の市場の規模は、この二つに制約されている。

胃袋と財布という「上限」を超えて、飲食業界の全体のパイが大きくなることはない。

コロナ禍による胃袋の縮小。

しかし、コロナ禍は、この二つの制約を変えてしまった。

感染症対策として会食の自粛が叫ばれ、全体的には懐事情が厳しくなった。

外食で満たされる胃袋は減少し、外食に向けられる財布の金も減った。飲食業界の「上限」が、大きく引き下げられたのだ。

客の奪い合いは、いっそう熾烈を極めたことだろう。飲食店は生き残りをかけて、縮小したパイにすがるしかなくなる。

閉店に至る経緯。

飲食店は、維持するだけでコストがかかる

土地や建物を借りているのであれば、撤退しない限り土地代やテナント料を支払わなければならない。

アルバイトはシフトを減らせばいいが、正社員には毎月給料を支払わなければならない。

店で出すものが売れなくても、仕入れた材料には代金を支払わなければならない。

光熱水費、設備費用、その他様々なコストがかかる。店の経営は大変だ。

さて、客も減り、赤字続きだろうと、店を維持するだけで金がかかる。そうなれば、潔く撤退した方が損が少なく済む

例のウンコしたくなる不思議な店も、このような事情を踏まえて閉店を決意したのだろう。世知辛い話である。

何が起こるのかを知っていても。

例のウンコしたくなる店には何度も彼女を連れ込み、退店後に渋谷の路上で便意を催させ、楽しませてもらった。

何度もそんな遊びをやっていると、さすがに彼女も何かがおかしいと気づいた。俺がタネを明かしたが、それからもゲームはたびたび実施された。なぜか?

想像してみてほしい。「ウンコしたくなる」とわかっている店にカップルで入って、公共の場で一緒に強烈な便意を覚えるシチュエーションを!

たちまちトイレに駆け込みたくなり、手を握り、緊張感を共有しながら仲良くトイレを目指す興奮を!

何も知らない彼女を連れ込んで遊ぶ店は、何が起こるのかを知っている彼女を連れ込んで遊ぶ店に変わっていた。

やはり楽しかったのだ。デートで飲食店に訪問して、排泄という、裸よりも隠されるべき、究極のプライバシーを共有できるのだから。

代替案、レシカルボン坐薬。

けれども、その店は、もはやなくなってしまった。

跡地に入った別の飲食店は、味は悪くなかったが、もちろん便意を催すことはなかった。

さて、そうなると代わりになるゲームがしたくなった。

以前、「レシカルボン坐薬」でよくゲームを楽しんでいた。

レシカルボン坐薬は、尻に挿しこんでから数十分で漏らしそうになる。直腸内で反応して炭酸ガスがわき、便意を催させる仕組みだ。

これを使えば、例えば駅のトイレなどで坐薬を差し込んでから、目的地まで我慢させるゲームができる。

日常で覆われた非日常。

とはいえ、オルタナティブとしては少し弱いか。坐薬を挿入するというのが、露骨である。

例のウンコしたくなる店の最大の魅力は、「デートでただ単に飲食しただけ」という何の変哲もない行動をとると、路上を歩いているうちに強烈な便意に襲われるという「予定調和」をエンジョイできることだった。 

もっと突き詰めれば、平凡なる建前と特殊な目的のギャップである。

ウンコしたくなる店からは、カップルが会食しただけというありきたりな風景から、漏らせば大惨事になる強烈な便意が生じた。そのリスクの高い特殊な状態を「目的」としながら、何気なく渋谷の飲食店で仲良く食事をとっている「建前」に興奮した。

つまり、目的である非日常が、日常のヴェールで覆い隠されている点こそが、何よりの魅力だったのだ。いわば、非日常を約束した日常、である。その日常風景は、非日常の事件を胚胎している。未来の異常事態を期待させる、眼前の愛すべき平凡さといってもいい。

公共空間でプライバシーを守る物語。

ここまで書いてようやく気付いた。なぜ例のウンコしたくなる店は貴重だったのか。

例のウンコしたくなる店で行った一連のゲームには、「公共空間-プライバシー」、「日常-非日常」の対立項目が含まれながら、予定調和の物語が展開された。

パブリックな空間でカップルが一緒にご飯を食べるという「日常」から、プライベートな事柄の危機に瀕する「非日常」が始まる。

排泄は個人の最大のプライバシーであり、公共空間から隔離されたトイレで行う必要がある。カップルは公共の場で、最大のプライバシーを守り抜くかなければならない。ウンコしたくなる店を出た二人は、この危機をともに乗り越えていくのだ。

無論、その危機は最初から企図されたもので、危機に直面してそれを克服するのは「予定調和」でしかないのだが、「物語」はそもそも筋書きの用意された予定調和である

ある枠の中で起こるハプニングを楽しむというのは、ルールを持つあらゆるゲーム(遊戯)、主人公の動機や展開の骨子を持つあらゆる物語にいえることだ。

レシカルボン坐薬ではこれが起きようがない。だからこそ、かつて渋谷にあったウンコしたくなる店は貴重だった。その店からは、多くの大切なことを学ぶことができた。

日常のヴェールで覆い隠された非日常を予定調和とするカップルの企て。公共空間でプライバシーの危機を約束したデート。ここに、人間の性を読み解くための、新しい概念が創造されたのである。

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