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討ち入り 赤穂浪士の物語

本日12月14日は、赤穂浪士の討ち入りの日とされている日です。

しかし、元禄15年12月14日というのは旧暦で、現在の新暦に変換すると
1702年1月30日なので、そう考えると1ヶ月ほどの季節感の違いがあります。
数日前から江戸の町に雪が降っていた、という伝承も、1月の末なら珍しいことではなさそうです。

最近ではあまり見かけなくなりましたが、昭和の時代くらいまでは「年末恒例」のものとして一般的に思い浮かべられる中のひとつに「忠臣蔵」があったと思います。

明治生まれだった私の祖母が、忠臣蔵もののドラマを楽しみに見ていたのを思い出します。誰々の演じた内蔵助が良かった、などと、比較して言っていたのは、忠臣蔵を題材にした創作物も沢山あり、いろいろ見ていたからだろうと思います。
そもそも「忠臣蔵」というストーリーの予備知識があるから楽しめる、そういう日本人が多かったのだと思います。

最近では、忠臣蔵の物語に触れる機会もめっきり少なくなったように感じますが、どうなのでしょうか?
300年の年月が経ち、武士の忠義というような考え方から現代の私たちの感覚はだいぶ遠いところにきました。苦難を耐えに耐えて、己や家族を捨てて主君のために目的を果たす、ということも、その目的達成の方法が「仇を打つ」ことなのも、現代人にとっては、そのまま褒め称える気持ちになりにくいもの、という感じもします。

私の所属している琵琶の会の支部でも、長年「義士祭」という内輪の催しをこの時期にして、忠臣蔵関係の曲を演奏していました。私が習い始めた頃は、非常に盛んで、一年の琵琶関係の催しの中でもいちばん盛大だったのではないかと思うくらいでした。
当時の先輩方、40年前にすでにご高齢だった方達ですから、明治大正生まれの方も多かったと思われますが、忠臣蔵大好き!という熱気が感じられたものです。

その義士祭も、いろいろと事情はあるのでしょうが、昨年から行われないようになり、
琵琶の世界でも、忠臣蔵は遠くなったのかなと思っています。

私が習った忠臣蔵もの琵琶曲で、記憶に残っているのは、
「大高源吾」
「山科の別れ」
「別れの盃」
「義士の討入り」
「雪晴れ」など

これをご覧になって、ああ、あの話ね、と、ピンと来る方は、
今どのくらいいらっしゃるのでしょう。

実は忠臣蔵の琵琶曲で私がいちばん好きだったのは、これらの曲ではなくて、
「村上喜剣」というお話でしたが、
村上喜剣さんは実在の人物ではなくて、後に創作された架空の物語です。
それだから、気楽に演奏できる気がした、というのが、
好きだった理由のひとつです。

今日は討ち入りの日なので、
久しぶりに忠臣蔵の曲でも弾いて、
ひとり義士祭、をしてみようかと思います。


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