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なんとも言えない感覚と言葉



タイトルを決めて、その通りに書くということが苦手だったりする。



だからちょっと、思い立って、頭の中を順番に羅列するということを試してみる。つまるところそれは、ただの日記だ。

こうやって、文章を書こうとすると、理論的に道筋を立てて、整理されたものを書かなければならなそうな気がしてくる。

そして、わたしはそういう文章が好きなので、なおさらだ。

過程と結果が見事に連なっていて、隙のない文章には、ぐぅっと言わされる。

だからこそ、そんな文章は到底書けないと思ってしまうので、そこには憎しみのような感覚が芽生えてくる。





とはいえ、なんとも言えない日常の感覚、感情を上手に文章に落とし込むことができるかといえば、そうではない。

哲学者の永井玲衣さんの著書『水中の哲学者たち』を読んだときに思ったことだけれど、『こんなにヒリヒリとした、日常の感覚を言葉にできるなんて天才すぎる...』などと。

なんとも言えない感覚や感情を言葉に表す方法は、究極的には数学と芸術ということになるのだと思う。

もちろんこれは究極なので、わたしにはどうにも持ち合わせていない能力だったりする。







先日、終わりがけの桜を撮ってきた。

『よし、桜を撮ろう』と休日の昼過ぎに重い腰をあげ、なかなか外には連れ出すことのない箱入り娘な一眼レフを取り出す。

玄関の戸を開けると微々たる霧雨が降っていることに気づいて、一瞬絶望したけれど、負けるもんかと箱入り娘を上着でかばいながら、近所の神社へと自転車を走らせた。

その神社には数日前まで、満開の花びらがもふもふと柔らかなクッションのように折り重なっていた。

そんな光景はいずこへ、もうほとんどの木々は花を落とし、新緑の季節へと準備を進めていた。たった一つの幹を除いては。

品種が違うのかなんなのか、なぜだかその一つの桜の木だけはまだ花を残していたのだけれど、低気圧のためか強い風が吹き、いまにもこの景色はどこかに行ってしまいそうな具合だった。

そんな中、箱入り娘を霧雨からかばいつつ、何度もシャッターを切った。

そこには対話があったような気がした。










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