なにがあっても感じることをしてみる
感じるとか味わうことって、大事だなって思います。その理由を説明するのはとても難しいのだけれども、目の前の事象を味わい感じている瞬間は善し悪しという世界から抜け出しているような気がするのです。
わたしたちはふと気がつくと、善し悪しの世界に生きてしまうことがあります。あの仕事はいい仕事だ、立派な仕事だ。あの人はすごい人だ、実績もある人だ、というように。目の前に起こっている事象に対しても、無味無臭のフラットなものの見方をするのは難しいことです。
いまわたしのしている仕事はたいしたことない、誰でもできることだ。AIにとってかわられるかもしれない。趣味と呼べるようなものはあるかもしれないけれど、それも素人に毛が生えたものだ、自信を持って見せられるようなものではない、なんて。
そんなふうにいまの自分の目の前に起きていること、もしくは自分自身の人生というものに価値や優劣をつけて判断をしてしまいがちなのです。
そして、今よりももっと良いところに向かおう、高いところへ飛べるようになろうと思うときもあるかもしれない。それは別に悪いこととは言わないけれど、そうしたいのであれば存分にやればいいのだけれども、今とは違うどこかへ行きたいと願ったときには、コインの裏側のように今いるこの場所を否定することになってしまうのです。
今よりもあそこへ、と思うときは、今この場所に満足がいっていないときです。今このままでいることに不安や不満があるときなのです。ずっとこのままでいることが怖ったりするのです。でも、ずっとこのままでいいやと思えないと、いつまでたっても満足できません。今この場所ではないどこかのあの場所をずっと夢見ることになる。
いつまでもわたしという存在を否定して生き続けることになる。ここから抜け出すのがとっても難しいのですね。
だから、ただ感じることをしてみるのです。いつまでたっても、どこまでいっても、わたしは感じるだけです。どんなに立派なことをやろうと、社会的に良いことが起ころうと、ただわたしは感じているだけです。逆も然り。どんなに辛い出来事があろうと、苦労が重なろうと、事象自体には何の意味もないのだから、それを感じるだけなのです。
何が起こっても感じるだけ。それを日々淡々と繰り返すだけ。どこに向かおうが、何が起ころうが、どんなに嬉しいことがあろうが、どんなに苦しいことがあろうが、ただただここに佇んで、流れていく時間と空間を味わうだけなのです。それすれば否定は起こりません。ただそのままを受け入れることになります。
大きなことも小さなこともなんだって受け入れる。むしろ受け入れられなくたっていい。受け入れられないということを受け入れる。自分は目の前の事象に対して、そういう反応をしているのだなぁと受け入れるのですね。
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