美しさを探求すること。

natural outputs!!という活動を始めると決めてから、もう半年くらい経つ。具体的に活動し始めたのは今年に入ってからなのでまだまだ産まれたてなんだけど、立ち上がりから考えるとなかなかと時間が経ったなぁと感じるところがある。

亀のような歩みではあるけど、これが一番最短な道だと思っている。焦ることはよくない。そもそも焦る意味はあんまりない。自分はこの活動を生涯通して続けていくだろうし、その中で得られるものはほんの少しでもいいと思っている。なぜなら新しい文化を体感したいからだ。新しい文化を体感するには時間がかかる。もしかしたら自分が生きているうちには成し得ないことかもしれない。だから焦る必要はない。

先日のワンマンライブを経て、あらためて自分にとってのこの団体の意味はなんだろうと考える。なにをしたいんだっけと、日々考える。忘れているわけではないけど、毎日ゼロから思い出すようにしている。本当にこれでよかったんだっけな、と。人の記憶はあまり役に立たなさそうだから。

いま思っていることは、「それぞれが美しいと思うものを探究し続けることがいいな」ということ。美しいというのはひとつの表現方法なので別に「カッコイイ」とかでも構わない。それぞれの価値観の中にある、なんかしらんけどいいなと思うものということ。

美しいでもカッコいいでもいけてるでもエモいでもなんでもいいんだけど、「正しい」は良くない。正しさと正しさ、正義と正義はぶつかり合う。そして戦争が起きる。でも美しさと美しさはぶつかり合わない。いや、その美しさの中に正しさを同居させてしまうとそれはもちろん良くないのだけど、ただ単に個人的な美しさの探究には正義は存在しないと考える。

美しさの探究の先には「分かち合い」がある。自分が美しいと思っていることを分かち合うことはとても楽しいことだし素敵なことだし嬉しいこと。それはマニアックなものであればあるほどたまらない。偏愛が激しいほど心地良い。そこにはぶつかり合いは存在しない。だから戦争は存在しない。自分が美しいと思うものを探究し、分かち合い、喜びを感じる。それは幸せなことだと思う。そこが人生のゴール地点のひとつな気もする。

争いたがる人には自己表現が欠けている。自分にとっての美しさを探求することをなにかしらの理由で諦めてしまった人だ。その人たちは美しさの代わりに正しさを追い求めてしまった。それは幼い頃の家庭環境だったり学校などの環境だったりが理由かもしれない。自己表現することを良しとしない環境に置かれることで、美しさの探究を諦め、その代わりに社会という尺度で正義を求めることに没頭した。それが生きるための手段だったに違いない。だから仕方ないことだと思う。

諦めてしまったのであれば挑戦すればいい。忘れてしまったのであれば思い出せばいい。それは可能なことだと思う。全人類とは言わないけど、自分の身の回りでそういう流れをつくりたい。正しさではなく美しさを探求することの大切さをもっと体感したい。



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