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言葉にならない大切なもの



頭の中のことはなかなか伝えることが難しい。はて、自分の頭の中をどのくらい言葉で表現できているだろうかと考えてみると、おそらく1割も満たない。しかもその1割も偽りのものであることも考えられる。

つまり、頭の中のほとんどのことを言葉で表現することは、まったくと言っていいほどできていないのだ。



だとすれば、それはそれでいいのではないかと思う。いっそのこと、言葉で伝えることはあきらめてもいいのではないかなとも思う。そうやって開き直ったときに、なにか新しい表現方法が見つかるかもしれないし、そうでもないかもしれない。

伝えることに苦労して、ちっとも伝えられないのであれば、伝えることを諦めてみよう。




とはいえ、言葉では伝わらなくても、なんとなく空気感で伝わる場合もある。

ぼくは彼女と一緒に暮らしているけれど、言葉ではあんまりわかり合えない。おそらく、頭の中の思考回路や認識の仕方が全然違うのだと思う。

それゆえに言葉で理解しようとすると、お互い理解に苦しむことになる。

でも、なんとなくの雰囲気はわかったりする。それは空気感だったり、これまで一緒に過ごしてきた文脈のようなものがあるからなのだと思う。




たとえば、コーヒーを飲もうとしてこぼしてしまうのは決して不注意なのではないらしい、とか。思い立って突然に洗濯を始めたり、クッキーを焼いたりする習性がある、など。

そういう行動習慣のようなものの積み重ねで、お互いがお互いのことをなんとなく理解していくのだと思う。





相手の言動はわかろうとするとわからないので、フラストレーションになることがある。その言動をした理由を聞いても、たいした理由なんてなかったりするものだから、なおさら理解に苦しむ。

でも、そういうもんなんだとわかろうとすることを諦めるとひとまずは安定する。




先日まで、谷川嘉浩さんという哲学者の著書『スマホ時代の哲学』を読んでいたけれど、まさにこれは《モヤモヤをそのままにしておく》という感覚なのだと思う。

分子生物学者の福岡伸一さんの著書に『世界は分けてもわからない』というものがあるけれど、分けていって細かくしていって、原因を紐解けばわかると思っていたのに、結局なにもんからないということがある。

人間関係やコミュニケーションもそういう類のものなのだと思う。




会社組織の中でおこなわれているマネジメントや、問題や役割を細分化してソリューションを提示していくようなやり方も、分けてわかろうとするやり方なのだろう。

管理コストばかりかさんで、効率的なのかなんなのかわからなくなっている人も結構いると思う。言葉にしないだけで。





頭の中はなかなか言葉にならないけれど、言葉にならない部分に本当は伝えたいことがあったりする。

それを伝える方法は、非言語コミュニケーションの中にあるのかもしれないけれど、言葉で伝えることも不可能ではない気がする。

それは、物語だったり叙事詩だったり、理論ではない情緒的なものの中に含まれることもある。

現代でいうと、案外エッセイ的ななんてことない日常を切り取った言葉の中に含まれているのかもしれない。



最近はInstagramなどを見ると、最適化されたキャッチーなショート動画ばかりが目につくけれど、もう少しなんてことないものを摂取したいなと思うことがある。

そんなこんなで、豚骨醤油ラーメンのような濃縮されたショート動画から離れるために、すっかりSNSをみなくなってしまったのだけれど、もっと《日常》に触れたいのだ。





日常なんて、その辺にさらさらと転がっているのだから、わざわざ最新の技術なんて駆使しなくてもいいのだ。

庭や道路を見ると、最近はカマキリが顔を出していることが多くて、『ああ、カマキリは秋の虫だったんだ』と思ったりする。

休みの日にスタバに来て、はちみつのトッピングをしようと頼んだけれど、アイスラテを頼んだものだから、そのはちみつはカチカチに固まってしまった。

そんななんてことない日常に、言葉にならない大切なものは転がっているのかもしれない。








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