甘いタリウムは必然の香(35)

 第八章 必然的な結末

  3.心理操作の真骨頂


「それと……私のコーヒーにタリウムが混入されていた四日前の事件ですが、私を殺さなければならない必然性は、この連続殺人犯にしかないんです」

 ホームズは山科をじっと見据えた。

「私のコーヒーにタリウムを入れたのは、間違いなく山科さんでしたよ」
 山科が何か言いかけたが、それを制するようにホームズは話を続けた。

「さっきも言いましたけど、コーヒーに違うものが入っていれば私にはすぐにわかるんです。四日前のコーヒーもひと口飲んだだけでタリウムが混入していると気づいたので、残りを口に含んで倒れてから床に吐き出しました。だから実際に飲みこんだのは最初だけなんですよ」
 さも大丈夫な言い方だが、普通の人間からみればそれだけでもじゅうぶん危険な状態だ。

「だから、倒れる瞬間や倒れた後も皆さんの行動をすべて観察していました」
「でもな……」
 ホームズの話を遮ったのは有田だった。

「山科さんには、ホームズのコーヒーにタリウムを入れることができなかったんだ」
 有田が申し訳なさそうに言うと、ホームズが怪訝そうに首を傾げた。

「山科さんは、ホームズがコーヒーにシュガーを入れた後に、このベイカー街に来たんだよ。それはホームズも知っているじゃないか」
 有田が順を追って説明すると、山科は満足そうな表情を浮かべたが、ホームズはガックリと肩を落とした。

「未明君……そんなことで名探偵の相棒が務まるわけ?」
 有田は、「自分で名探偵とか言うか?」と思った言葉を飲み込んだ。
「あのね……私が飲んだタリウムは、ブラウンシュガーのタリウムじゃないのよ」
「だって、飲みかけのコーヒーと同じ成分の殺鼠剤がブラウンシュガーから検出され……」
 と、言いかけて有田は自分の思い込みの浅はかさに気づいた。

「やっと気づいたようね未明君。さっきも言ったように私は倒れる瞬間も倒れた後も皆さんの行動を観察していたんです。私が床に倒れるとき、山科さんがシュガーポットにブラウンシュガーを置くところをしっかりと見ましたよ。大袈裟に倒れたので、皆さんの視線が私に向いていましたからね」
 山科は汗を拭おうともせずにホームズを睨みつけている。

「山科さんは、先週の木曜日にひとりでベイカー街にいらしたみたいなので、そのときにブラウンシュガーを持ち帰って、それを見本にタリウム入りシュガーを用意しておいたんですよね。入れ替えるわけではなく、シュガーポットの上に三個置くだけだったら、そんなに怪しい行動にも見えませんからね」
 美里が思い出したように、手を挙げた。

「そう言えば、先週来たときに何か容器を取り出してゴソゴソやってました」
 山科は美里の言葉には反応せず、ずっとホームズを睨んだままだ。
「山科さんが一週間前に殺鼠剤を購入した薬局も見つけました」
 美里に続いて、野沢が得意そうに捜査報告をした。

「山科さんがシュガーを置いた後に立ち上がりながら倒れた私を覗き込むふりをして、出窓のカーテンレースの折り目部分にスポイトを隠すところも見ていましたよ」
 ホームズが自分の頭の横にあるカーテンレースを指さした。

「スポイト?」
 突然出てきた言葉に、有田が声を上げた。
「さっき確認したらスポイトは既に回収済みのようだけど、山科さんは昨日もベイカー街に来ていたんでしょ?」
「昨日だけじゃなくて、ホームズさんが居なかった三日間ずっと来てますよ」
 無言になった山科に替わってマスターが答えた。
「じゃ、そのときにスポイトは回収したんですよね。それでも鑑識さんに調べてもらえばタリウムの痕跡や山科さんの指紋が検出されるでしょうね」


「どうやってスポイトを使ったんだ?」
 有田が質問すると、山科は苦々しげに顔をゆがめたが黙ったままだ。
「四日前、山科さんが奥の席に移動するとき……コートを脱ぎながら袖の中に隠したスポイトを使って、私のコーヒーカップにタリウムを垂らしたのよ。いくらシュガーポットの上にタリウム入りシュガーを置いたとしても、私がそれを使う保証はないから、確実な方法でタリウムを私のコーヒーに入れたんですよね」
「何を根拠にそんなことを……」
 山科はやっとの思いで、声を絞り出しているようだ。

「だからさっきから言ってるじゃないですか。私がすべて見ていたと……」
 ホームズの言葉に、山科は業を煮やしたように大きな声で反論した。

「嘘だ! 僕が席に着くとき、あんたはマスターに僕の分のコーヒーを注文してくれていて横を向いていたし、倒れるときだってあんたは眼鏡を飛ばしていたじゃないか。テーブルの上で何をしていたかなんて見えているはずがないんだ。また嘘の言葉で僕の心を操作しようとしているんじゃないのか!」
 冷静な山科にしては感情的になっている。

「そうですね。今のところ順調過ぎるくらいに山科さんを操作できていますよ。それは別に今日に限ったことではないんですけどね」
「どういう意味だ?」
 山科の興奮が最高潮に達している。

「第一、私の視力は悪くないんですよ。この眼鏡はシャーロック・ホームズさんを演じた役者さんに憧れて買った伊達眼鏡なんです」
 ホームズは眼鏡をずらしてウインクした。こんな緊迫した中でも茶目っ気たっぷりに余裕がある。

「なんだと……」
 山科が絶句した。
「山科さんが先週の水曜日に事務所で赤のサインペンを胸ポケットに入れるところも、しっかり見ていましたよ。おそらく私の視力……というか、私が眼鏡をかけているときの視界範囲を確かめていたんですよね」
 既に山科は顔色を失っていた。

「蓋付きスポイトとタリウム入りシュガーをあらかじめ用意しておいて、私の目を盗んでコーヒーに入れる機会を探すつもりだったのでしょう。シュガーを入れ替えたように偽装することで捜査を撹乱するのが目的ですね。そして四日前のあのとき、テーブル席をひと目見てチャンスだと考えたんですよね。彩花さんと未明君はブラックで飲むと知っているし、唯一会ったことのない麻紀さんがオレンジジュースを飲んでいたから……」
 山科は大きく肩で呼吸をしている。

「タニラーである山科さんが、珍しいセダムをゴミとして捨てるはずがないので、自宅近くの公園に移植しようと考えるのも必然的だし、事務所を荒らして証拠を隠滅しようと考えるのも必然的なものなので想定の範囲内ですよ。だから大切な証拠物件だけはミサトさんに預けたのです」
 有田は、ホームズが一気に攻め込んでいる気配を察した。


「四日前は三鷹での出来事から彩花さんと山科さんの関係を披露すれば、私の捜査力を恐れた犯人が罪を重ねるのを控えるかと思っていたんだけど、先手を打たれちゃった。まさかあそこで命を狙われるとは想定外だったけど……でも私の得意分野の方法で狙ってくれて助かったわ。スポイトを使うなんて、さすがタニラーらしい手口だったけど、私がタリウムでは死なないってことを知らなかったのが山科さんの致命的なミスでしたね」

 ホームズの言葉が終わらないうちに、山科は鬼の形相になっていた。

「じゃあ今度は確実に死んでもらおう!」

      (続く)


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