甘いタリウムは必然の香(26)

 第六章 ホームズのいない日々

  2.北アルプス


 長旅の疲れを振り払うようにホームズは背伸びをして、
「未明君は、私が入院していると信じてくれるかしら……。あれくらいのタリウムじゃ、どうってことないんだけどね」

 ホームズは何食わぬ顔で呟くと、帰りのバスの時刻を確認した。

 あのとき、コーヒーをひと口飲んだだけでタリウム入りだと気づいた。
 瞬間的に、「この中に私を殺そうとしている犯人がいる」と悟ったホームズは残りのコーヒーを一気に飲んだふりをした。口に含んだコーヒーは倒れた後に床に吐き出していたので、実際に飲んだのは最初の少しだけだ。それでも普通の人間なら充分害のあるところだが、もう何年も自分の体で順応実験を繰り返しているホームズには、『ちょっと苦い薬』程度でしかない。
 あとで鑑識が成分検査できる量をカップに残しておく余裕すらあった。
 盛られた毒物がタリウムだとわかった以上、タリウム中毒患者のふりをすることは、ホームズにとっては造作もないことだった。手足を痙攣させ、お腹が痛いと訴えながら、周囲の状況を見逃すまいと目を光らせていた。
 救急車に乗ると同時に、プルシアンブルーを処方してもらい、病院に到着するなり、「危篤ということでしばらく面会謝絶にしてください」と頼み込んだ。
 最初は、救急隊員も病院側も口裏合わせを渋っていたが、ホームズの心理操作の術中にまんまと嵌り、「連続殺人事件解決のため」という名目で、有田や捜査本部にも秘密の面会謝絶となった。
「敵を欺くには、まず味方からって言うしね」
 ホームズは自分に言い聞かせるように言うと、夕焼けが迫る山あいの集落に向けて歩き出した。

 バスでここへ来る途中、片側が谷になっている道が続いていた。
「烏丸さんご夫妻は、あの当りで事故に合われたのかしら……」
 夜間どころか昼間でも細心の注意を払わないと、谷底へ真っ逆さまだと、車を運転しないホームズにも想像できる険しい道だった。
 その集落は、つづら折りになった坂道の両側に、十数軒ばかりの古い家が点在している小さな集落だったので、香織の実家はすぐにわかった。地域の人は誰もが愛想よく、この地域に似合わない格好をしたホームズの問いかけにも親切に応えてくれた。

 香織の実家は、決して大きな屋敷というわけではないが、立派な茅葺で歴史を感じさせる旧家だとわかる。家の周りも綺麗に掃除され、農作業用の道具なども使いやすそうに整頓されていた。軒下に下がっている柿や大根を見ると寒い冬の訪れが近いことを物語っているようだ。

「こんにちは」

 ホームズが声をかけると、中から優しい笑顔のおばあさんが顔を出した。口元に刻まれた皺の深さから、いつも笑顔でいるのだろうとわかるほどだった。
「あれまあ、こんな田舎にべっぴんさんのおいでただ」
 おばあさんは、とびきり嬉しそうな笑顔を浮かべ、初めて見るホームズの姿を上から下まで見まわした。
「こちらは、笹原香織さんが生まれ育ったおうちで間違いないでしょうか」
 ホームズが香織の旧姓で丁寧に尋ねると、おばあさんは少し顔を曇らせた。
「確かにおらっちだけど、もう随分前に死んだに」
 悲しそうな声で答えた。
「ごめんなさい。悲しいことを思い出させてしまいましたね。少しお話をうかがいたいんですけど、今晩泊めていただけますか」
 いきなり見知らぬ者が訪ねてきて「泊めてください」とは常識外れなお願いだが、人の良さそうなおばあさんは、
「ああ、いいとも。もう今日はバスも来んし、しみるけえ、ときにゆっくりするだ」
 と、快く家の中へ迎え入れてくれた。

 家の中は昔ながらの土間があり少し薄暗かったが、家の外と同様に綺麗に掃除が行き届いていた。隙間風が吹くような造りなのに、思ったより家の中は暖かかった。
「おじいさん、今日はべっぴんさんのお客さんがおいでたんで、『おごっそ』にしましょうかね」
 おばあさんが声をかけた方を見ると、広い居間の囲炉裏の奥におじいさんが座っていた。
「おお」
 朴訥な印象のおじいさんはひと声唸り、ホームズの方をちらりと見て、また囲炉裏に手をかざした。
「こんにちは。突然お邪魔します」
 ホームズは丁寧に頭を下げた。
「さあ、あんたもお上がりなって囲炉裏にあたるろ」
 おばあさんの案内で靴を脱いでいると、奥の部屋に仏壇が見えた。
「あの……仏様にお参りさせていただいてもよろしいですか」
「もちろんいいだに。そんなありがたいことあらすか」
 喜んで仏間へ通してくれた。

 仏壇には、まだ三十代と思える男女の写真が飾られていて、その写真を見た瞬間にホームズの頭の中ですべてが繋がった。

 お参りをして囲炉裏のところへやって来たホームズに、滅多にしゃべらないと思われるおじいさんが口を開いた。
「香織のお友達ですかの?」
「いえ、私は結城巣逗といいまして、香織さんとは知り合いではないのですけど……実は、ミサトさんを良く知っています」
『美里を知っているのかい?』
 おじいさんとおばあさんが声をそろえて驚いた。
「はい。ミサトさんとは、東京のアパートで隣の部屋に住んでいて仲良くさせていただいています」
「そうですかい、美里の仲良しさんかえ。美里は三か月前にもここに帰ってきていたけんど、元気にしているなら何よりじゃ……。もしかしてあんたが美里の言うとった『ホームズさん』という人かい?」
 おしゃべりが好きそうなおばあさんが目を細めてホームズに聞いた。
「そうです。ミサトさんからは『ホームズさん』と呼ばれています。知っていてもらえて光栄です」
「そうかい、そうかい。美里の話には『ホームズさんがね……』と何回も出てくるけん、どんな大物かと思っていたら、美里と同じくらいちっこいのお」
 おばあさんは、嬉しそうに言うとひとりで高笑いした。
「ミサトさんは、時々帰って来ているんですね」
 ホームズが尋ねると、おじいさんが先に答えた。
「ああ、ここ何年かは夏休みになると二週間くらいは、ここに帰って来て手伝いをしてくれてる」
 おじいさんの表情は変わらないが、言葉から嬉しい気持ちが伝わってきた。
「ミサトさんにごきょうだいは?」
 ホームズの問いかけに、ふたりは少し顔を曇らせた。
「美里は知らんかもしれんが、姉がひとり居るんじゃ。香織が死んで美里を引き取るときはまだ二歳じゃった。親の顔もよう覚えとらんうちにワシらが引き取ったけど、姉は小学校に通うとったもんで、幸次さんの親せきに預けられたんじゃ。ここからじゃと中学にも小学校にもバスで一時間以上通わんといけんけんのお」
 おばあさんが言うと、後を次いでおじいさんが寂しそうに呟いた。
「その美里も小学生になる言うて、香織の妹に引き取られて遠くに行ってしもうた……」

 少ししんみりした話になってきたところで、おばあさんが夕食の支度を始めたので、ホームズも手伝うことにした。
 本来は土間の炊事場だったところに板を張って、座敷からそのまま家事ができるように工夫されている。背の低いホームズがちょうどいい高さの調理台だから、彩花がここで炊事をしたら腰に負担がかかるだろうなと思えた。そもそも彩花が台所に立つ姿を想像できないが……。

      (続く)

また登場人物が増えてしまいました。^^;

少しノンビリした描写にお付き合いください。

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