甘いタリウムは必然の香(25)

 第六章 ホームズのいない日々

  1.面会謝絶

 ホームズが倒れた翌日、有田は朝一番で病院を訪ねたが、意識不明の危篤状態で集中治療室にいるため、面会謝絶だと断られた。

「ガラス越しに顔を見るだけでもできませんか」

 有田は食い下がったが、
「他の患者さんもいますし、特別扱いはできません」
 きっぱりと断られ、ホームズに会うことはできなかった。


 有田は登庁後、まっ先に剣崎へ状況を報告した。
「女探偵さんの容態はどうなんだ」
「それが……危篤状態らしくて面会を断られました」
「まさか、有田君が狙われて、巻き添えになったんじゃないだろうな」
「それはないと思います。シュガーを使うのは結城だけだと知っている者の犯行かと思われます。他のテーブルのシュガーには異常がありませんでしたので、無差別な犯行でもないと考えます」
「一連の事件の鍵となるかもしれんな。野沢君とふたりでこの件を追ってくれ。しっかり頼んだぞ」

 剣崎の言葉に大きく頷いたあと、鑑識課を訪れた有田と野沢は、ホームズのコーヒーに混入されていたタリウムが市販の殺鼠剤であると教えられた。
「殺鼠剤の入手経路を徹底的に調べるぞ」
「はい!」
 野沢も顔を引き締めて、気合の入った返事をした。野沢にとっても尊敬するホームズの仇を打ちたいと考えているようだし、何より刑事の目の前で犯行が行なわれたことに対する怒りもあるはずだ。
 しかし、ふたりともそう簡単なことではないと知っている。殺鼠剤を購入するには身分証明書の提示が必要だが、都内だけでも何千店あるかわからない薬局やドラッグストアをすべて当たるのは考えただけでも気が遠くなりそうだった。連続殺人事件の捜査で猫の手も借りたい状況なだけに、他の捜査員を投入するわけにもいかない。

「それにしてもホームズは、タリウム入りのコーヒーに気づかなかったのかな……」
 有田は、昨日からずっと脳裏に引っ掛かっている違和感を口にした。
「殺鼠剤は黒いけど無味無臭なんでしょう? コーヒーに入れられたら、気づかないらしいですよ」
 ホームズの特異体質を知らない野沢は、当たり前のように答えた。
「タリウムを飲んだくらいで危篤状態になるような、ヤワな奴じゃなかったはずなんだけどなあ……」
 有田は、ディスる口調で心配を振り払おうとしたが、ゆっくり考えている暇はない。ホームズが回復したときに、「何やってたの?」と言われないくらいの捜査をしておかなければ申しわけがたたない。それどころか、連続殺人事件との関連も調べて、すべてを解決しておかなければと決意して早速行動を起こした。

 まずは方面本部に協力要請して、各所轄管内の薬局で一ヶ月以内に殺鼠剤を購入した記録がないかの情報提供を求めた。方面本部とは、東京都内を十の方面に分けて所轄を掌握している組織で、今回のように都内全域が捜査の対象となるときには心強い味方だ。
 それでも、無闇に捜査したって埒が明かないことを知っているので、第八と第十方面本部からの情報提供を優先的に入れるよう連絡係りに手配すると、ふたりは西東京市方面へと車を走らせた。この近辺には麻紀の職場があるし、山科が住んでいる練馬区がある。地域だけでも効率的に攻めていく作戦だ。

 有田の予想どおり西東京市に到着する頃に、第八方面本部からの連絡で西東京市内に十二軒の情報提供があった。
「俺は市街の対象店八軒を車で回るから、野沢は市内の商店街を中心にしたこの四軒を歩いて回るんだ」
 手分けして情報提供のあった薬局すべての聞き込みを行ない、殺鼠剤購入者の住所氏名とその使用目的を記録すると同時に、購入時に不審な態度はなかったか確認した。続いて三鷹市や武蔵野市からの情報提供に対する聞き込みを、車と徒歩とでお互いに交代しつつ、約半日で第八方面本部管内の聞き込みを終えることができた。


 午後四時過ぎ、薬局回りでクタクタに疲れた有田と野沢は、ベイカー街に寄って遅い昼食を取っていた。

 ベイカー街も午前中は店を閉めていたらしいが、厨房付近に異常がないことから、午後には通常営業を始めていた。
「『忙しくなるわよ』とは言われていたけど……ホームズにはまるで今日の忙しさがわかっていたみたいだな」
 好物のドライカレーを頬張りながら野沢に話しかけた。
「ミリちゃん……元気がないですよね」
 野沢は美里の様子が気になって仕方ないようで、有田の言葉は耳に入っていない。

 美里は気丈にもアルバイトに出ていたが、有田が予想していた以上にすっかり気落ちしている。美里も学校が終わると同時にホームズの元へ駆け付けたが、面会謝絶で会えなかったらしい。
「ホームズさんが入院している間に、僕が犯人を捕まえるから大丈夫だよ」
 野沢が根拠のない励ましを言っても、美里は野沢の「大丈夫」を信頼しているふうではなかった。

「ホームズさん……意識を取り戻したら返信してくれるかしら」
 美里はスマホを両手で抱えて、ホームズからの返信を待っている。有田もトークを送っているが、返信どころか既読にすらならない。

「そういえば……昨日の朝、ホームズさんから預かった箱があるんです」
 美里がふと思い出したように、靴の空き箱程度の小さな段ボール箱を厨房から持ち出してきた。有田が受け取ると、何か入っているようだが重くはなく、上蓋はガムテープで閉じられていた。
「ホームズは何か言ってた?」
 有田が尋ねると、
「ううん。ただ、『これをミサトさんに預けておくね』と言われただけです」
 美里も不安そうな表情になった。
「何だろう。非常事態だし、見てみようか」
 有田が封を開けると、中にはコーヒーカップが三つと写真が入っていた。
 コーヒーカップは、底に乾いたコーヒーの跡が残っているので使用後のようだ。写真は二枚あって、一枚が品川埠頭でホームズが撮っていた『クサ』の写真。もう一枚は『練馬中央公園』と書かれた看板が写っていた。他に手紙などはない。
「なんだこりゃ」
 有田には意味がわからない。
 野沢も首を捻っているが、有田は妙な胸騒ぎがした。

「事務所に行ってみよう!」
 有田と野沢が二階に駆け上がると、美里も後を追いかけてきた。

「!」

 有田はドアノブに手をかけたまま野沢に鋭い目線を向けた。
 昨夜、ホームズが救急車で運ばれて関係者を家に帰した後、有田自身の手で事務所を施錠して帰ったのに、今はロックされていない状態だった。
 有田と野沢はポケットから白手袋を取り出し、部屋の中に入った。
「やられた!」
 引き出しという引き出しが開けられていて、中には何も残っていない。ホームズが綺麗に書類を整理していた戸棚の中も空っぽになっている。ホームズのデータベースでもあるパソコンも本体だけが消えていて、引き抜かれたままのコード類が散乱している。机の上や床には、辞書や書籍などが放り投げられているが、部屋を荒らされているわけではなく、目的の書類や物だけを持ち去ったとわかる。
 後を追ってきた美里も、異様な光景に口を押えていた。

「いったい、何が起きているんだ。ホームズ……死ぬなよ」
 有田が祈るように呟いたとき――

 ――その頃ホームズは、北アルプスにある山里のバス停に降り立っていた。

      (続く)

「敵を欺くにはまず味方から」ですね。

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