甘いタリウムは必然の香(22)

 第五章 ホームズ倒れる

  2.鉢合わせ


 有田が店内観察と一杯目のコーヒーを飲み終える頃、誰かがカウベルを鳴らして入ってきた。

 振り向くと、そこに彩花が立っていた。
 白い高級そうな薄手のコートを羽織っていて、この店に似つかわしくない程、お洒落な貴婦人といった雰囲気を醸し出している。

 絶句している有田に向かって、彩花は静かに口を開いた。
「素敵な喫茶店ですね」
 まるで有田がここにいることを知っていた口ぶりだ。

「いらっしゃいませ……」
 カウベルの音を聞きつけて厨房から出てきたマスターが、彩花を見て立ち止まった。
「……彩花さん……」
 有田が声を絞り出して名前を呼ぶと、マスターも顔をほころばせた。
「あっ! 倉見代議士の奥様ですね」
 マスターが声をかけると、彩花は軽く眉をひそめた。
「あの……お会いしたことがありましたかしら」
 元代議士夫人としては、どこで誰と顔を合わせているかわからないため、失礼のない対応が板についているのだろう。
「十七年ほど前にお屋敷でのパーティでコックを務めたことのある九品寺です。覚えてらっしゃいますか」
 彩花は少し迷った顔をしたが、すぐに思い出したようだ。
「ああ、長い料理帽を被ってらした腕のいいコックさんですね。その節は大変お世話になりました」
「とんでもない。フリーになったばかりの駆け出しコックを大切なパーティに使ってくださっただけでなく、他の代議士先生の方々に紹介してくださったおかげで、今のぼくがあるようなものです。本当に感謝しています」
 彩花のことを気にかけていた理由が、有田にも少しだけわかった気がした。

 マスターが厨房に戻るのを待って、有田が口を開いた。
「彩花さんは、ここに偶然いらしたんですか」
「いいえ、あのかわいい探偵さんから今日、ここに来るようにと言われましたの」
 彩花は、手にベイカー街の地図を持っている。
「え? ホームズが……」
 そのとき、厨房から出てきた美里が彩花を見て、「あっ!」と声を上げた。
 彩花の方は「え?」と首を傾げたことから、美里が尾行していたとは気づいていないようだ。美里はそのまま逃げるように厨房へ消えた。
「今の方……どこかでお会いしたことがあるかしら……」
 彩花は何かを思い出そうとしているようだ。

 そのとき、再びドアが開いてホームズが顔をのぞかせた。
「やっぱり未明君も来てたわね。呼び出さなくても来ると思ってた」
 ホームズは、見知らぬ若い女性を連れている。

「彩花さん、早かったですね。わざわざお呼びたてしてすみません」
 ホームズは屈託のない笑顔で彩花に挨拶すると、マスターに声をかけた。
「あとひとり来ると思うし、マスターやミサトさんにも聞いてほしいから、奥のテーブルを使わせていただくわね。未明君も彩花さんもテーブル席にどうぞ」
 皆を誘導して、奥のテーブルへと向かった。

 ホームズが連れてきた女性は、二十代半ばくらいに見えた。長い髪は綺麗なウェーブがかかっていて、薄化粧な肌白の顔と相まって洋風人形のような装いだ。地味だがしっかりとしたスーツを着ていて、凛とした歩き方から『お堅い職業』だと推測できた。

 ホームズがいつものようにテーブルの一番奥の席に座り、その向かい側に彩花を座らせた。彩花の隣にホームズが連れてきた女性を座らせたので、必然的に有田は見知らぬ女性と向かい合わせに座ることになった。その女性は下を向いていて、有田とは目を合わせないようにしているようでもあった。
 大好きなホームズの声を聞きつけて、美里が水を四つ運んできた。
「いらっしゃいませ」
 彩花の方からなるべく顔を背けようとしていた美里だったが、隣に座っている女性を見て、またも大きな声を上げた。
「麻紀さん! 御厨麻紀さんじゃないですか!」
 大声に反応して顔を上げた女性は、美里以上に驚いた顔をしてホームズを見た。
「結城さん、どういうことですか! 大事な話があるからと言うのでついてきたのに……。ここはいったいどこなんですか」
 麻紀は血相を変えたが、ホームズは落ち着き払っている。
「麻紀さんにミサトさんがいることを告げないままお連れしたことはお詫びします。ちゃんと説明しますから落ち着いてください」
 ホームズの話術で、麻紀の興奮はすぐに収まったようだ。

 それから、マスターを呼ぶと、
「コーヒーを四つお願いします。ミサトさんもそこに座って聞いてちょうだい」
 と、隣のテーブルに座るよう指さした。
「あ、私はコーヒーが飲めないのでジュースをお願いします……」
 麻紀が手を上げて遠慮がちに言った。
「それなら、果肉たっぷりのオレンジジュースがお勧めですよ」
 ホームズがベイカー街名物のオレンジジュースを勧めた。
「じゃそれで……」
 それを聞いてマスターだけがカウンターに入っていった。

      (続く)

なんか少しだけ騒がしくなってきました。

まだ伏線を散りばめています(笑)


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